>現代ビジネス >【秋山信将×小泉悠】「日本がその気になれば、すぐ核武装できる」は本当か? 危機の時代に「日本の核」を本気で考える >週刊現代 (講談社・月曜・金曜発売) によるストーリー・ >2時間・ >「持たず、作らず、持ち込ませず」の国是も、色あせてゆく混迷の時代。 >「日本はその気になれば、いつでも核を作れる」は、本当なのか? >トランプ政権と「核武装論の噴出」 >小泉:ゼレンスキー大統領が2月にホワイトハウスを訪れ、トランプ大統領と口論になったことを受けて、日本でもSNSで「核武装論」が爆発していますね。 >「もうアメリカは他国を助ける気がない」「自分たちで核を持つしかない」という日本人の素朴な心情が、一気に噴出し始めたと感じます。 >確かに、アメリカは内部崩壊を起こしつつある。 >私たちが知る日米同盟や日米安保は、そう遠くない未来になくなるかもしれない、という前提で考える必要が出てきているのも事実です。 >ただ、その一方で、いまの日本の核武装論には危うさも感じます。 >秋山:「日本はプルトニウムもあるしロケット技術もあるのだから、すぐに核武装できるだろう」と考えている日本人は多いと思いますが、単に核兵器を持つのではなく、信頼に足る核抑止力を持つのは、技術的にも政治的にも意外とハードルが高い。 >「持つ」という決心だけで、気がついたら核保有国になっていた、ということはあり得ません。 >小泉:具体的にどんな種類の核を何発持ち、どんな戦略で運用するのかまで、ちゃんと考えて言っている人は少ないですよね。 >核武装を論じるなら、安心のための「お神輿」として持ちたいのか、それとも本当の抑止力として核を使うつもりなのかを、まずはっきりさせるべきだと思います。 >「原子力潜水艦」の高いハードル >秋山:そこを具体的に論じるためにも、今日はあえて、仮に日本が現実的で信頼できる抑止力として核戦力を持つとしたら、についてシミュレーションしてみましょう。 >まず、核武装というと核弾頭の製造ばかり注目されがちですが、むしろ重要なのは運搬手段とその運用です。 >核があっても、相手のところに到達しなければ意味がない。 >信頼性が高いのは原子力潜水艦に載せることですが、何隻くらい必要になるでしょうか。 >小泉:軍艦や潜水艦は、基本的に4隻セットです。1隻が任務につき、1隻が任地に向かう途中、もう1隻が帰る途中で、残る1隻は修理や補給を受ける。核保有国のイギリスとフランスがSSBN(弾道ミサイル搭載型原潜)を4隻ずつ持っているのは、まさにこの理由です。 >アメリカのSSBNは14隻で、ロシアは現在動くものだけで12隻。 >さらに地上にも膨大な数のICBM(大陸間弾道ミサイル)を持っています。 >日本が原潜で核戦力を運用しようとしたら、やはりイギリスやフランスと同等の4隻が必要になるでしょう。 >秋山:1隻あたり何発の核を積めるんでしたっけ。 >小泉: ロシア式の場合は弾道ミサイルを16基、アメリカ式だと24基積めます。 >1基のミサイルには複数の弾頭が搭載されていて、ロシアのミサイル「ブラワー」なら1基あたり6発、アメリカの「トライデントⅡD5」の場合は最大14発です。 >アメリカの原潜は、1隻に最大336発も核を積めることになります。 >日本は数少ない「潜水艦を自前で作れる国」ではあるけれど、原潜はひとつも作ったことがありません。 >さらに弾道ミサイルまで積むとなると、技術的なハードルはかな り高いと言えます。 >難しいのは「モノ」より「ヒト」づくり >秋山:加えて、それを運用する乗員やエンジニアの育成にも10年単位の時間がかかる。 >原潜は一度任務に出れば数ヵ月は潜りっぱなしですから、もちろん放射能漏れは許されませんし、非常に高い安全性と危機管理能力が求められます。 >アメリカでは海軍が原子力訓練司令部に原子力技術者養成学校を置いているほどで、装備開発より人材育成のほうが大変かもしれないですよ。 >小泉:インドは2010年代に初めて自前の原潜を作りましたが、じつは1980年代からソ連に原潜を借りて、運用方法を30年かけて学んでいました。 >日本も、短期間でできるとは思わないほうがいいでしょう。 >秋山:原潜の運用のためには、母港の確保や、核弾頭の備蓄・メンテナンスをするインフラも必要ですが、どこにどのように置くのかという問題もあります。 >小泉:中国やロシアのような大国でも、原潜の基地はかなり人里離れた場所に作っていますが、その余地は日本にはありません。 >唯一、イギリスが島国でありながらSSBNを運用していて、スコットランドに基地を置いています。 >日本なら、たとえば青森に置くといった話になりそうですが、現在の基地は丸ごと作り直す必要があるし、核弾薬庫などの建設も一からやるので、天文学的な費用がかかるのは間違いありません。 >「離島を占拠された」ときは役に立たない >秋山:原潜以外の手段もあるにはありますが、残存性や軍事的効用を考えると、抑止力としては心もとないですね。 >小泉:まず考えられるのは、自衛隊の戦闘機に載せること。 >航空自衛隊のF35Aブロック4は、NATOの核共有用に指定されている戦闘機ですから、アメリカの核爆弾B61が載せられるはずです。 >いま防衛省が開発している超音速ミサイル「島嶼防衛用高速滑空弾」は射程がおよそ3000kmあるので、それに搭載する方法も考えられます。 >ただし、移動式発射台で地上から撃つ方式ですから、原潜よりは脆弱にならざるを得ない。 >しかも、仮にここまでやったとしても、たとえば「日本存亡の危機になるようなことをしたら、北京を攻撃します」というような、限定的な報復能力を持てるにすぎません。 >それに、たとえば「先島諸島だけを中国軍に占拠された」という場合には、おそらく核は役に立たない。 >他国の侵略を受けたときには、自国の領土内で核兵器を使うことが想定されますが、実際にウクライナ軍が2024年8月にロシア本土のクルスクに攻め込んだとき、ロシアは核を使えなかった。 >それと同じ状況になるでしょう。 >「核さえ持てば抑止できる」は早計 >秋山:抑止できるかどうかは相手国との関係性に左右されますからね。 >単純に「日本も核さえ持てば中国を抑止できる」と考えるのは早計です。 >もし私が中国のリーダーなら、「北京と上海を壊滅させても、後背地にはもっと多くの中国人がいる。 >もし日本が核を使えば、世界中の中国人はいつまでかかっても日本に反撃する」と言いますよ。 >これを克服するには、核兵器の数的な均衡ではなく、社会全体で見た「恐怖の均衡」を確立する必要がある。 >その手段や策がなければ、中国に抑止のチキンゲームを挑んでも、勝利の理論、つまり信頼性のある核抑止は見いだせません。 >小泉:日本の核武装論の背景にあるのは「アメリカが信用できないなら、自分の身は自分で守るしかない」という理屈で、その気持ちはわからないではない。 >でも現実の状況を細かく考えれば考えるほど、日本が核を持つことのメリットがデメリットを上回るようなケースは、意外と想像しにくいんですよね。 >ここ数年は、NATO加盟国のように、アメリカが持つ核兵器を自衛隊が運用する「核共有」の議論も盛り上がっています。 >秋山先生はどう思われますか? >私は、あんまりピンとこないんですが。 >「アメリカが信用できない」ときに起きること >秋山:NATOでは、核共有とは「能力の共有」「意思決定の共有」「責任の共有」だと定義されていて、このうち日本にとって特に重要なのは「意思決定の共有」だと思います。
日本人には意思がない。だから常に意思決定 (理性判断) に難渋している。切羽詰まって恣意決定 (盲目の判断) に走ることも多い。これにより国がひっくり返ることもある。日本人は危険人物である。気分・雰囲気・感情の歌詠みに走るか。
>つまり、日本が作戦計画の段階から関与できて、アメリカとどう役割分担するのか明確化できれば、アメリカによる核抑止の信憑性が高まる。 >ただ、そのとき日本は「責任の共有」、すなわち核兵器を使うことによる負の影響も背負う。 >つまり政治の覚悟が求められるわけです。 >小泉:極端に言えば、「中国軍が先島諸島を占領したとき、自国の領土に、自衛隊がアメリカの核を落とす覚悟はあるんですか?」 ということですよね。 >「なんとなくウチも見栄えのいいお神輿が欲しい」くらいの覚悟なら、あまりにも無責任ではないかと。
そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人間には責任もない。だから信用も得られない。民、信無くば立たず。(政治というものは 民 (民衆) の信頼無くして成り立つものではない。) [論語・顔淵] ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>そもそも核共有というのは、平時から貸してくれるのではない。 >基本的にずっとアメリカが持っていて、使う瞬間に自衛隊の戦闘機に載せさせてもらうわけですが、アメリカの核の傘が信用できない状況なら、そのアメリカが有事で核を貸してくれるという信頼もまた、ないはずです。 (略) >「週刊現代」2025年5月12日号より
日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望を与えることがない。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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