第一章 気づくこと ボールを胸元に放らないと捕ってくれない先輩 野球をプレーするうえでの基本は、キャッチボールだ。野球経験がある方なら分かると思うが、ボールを狙ったところに投げることは簡単なようでいて難しい。 高校時代を過ごしたPL学園高校には、一学年上の先輩に、後にプロで活躍する立浪和義さんや片岡篤史さん(元阪神)、野村弘樹さん(元横浜)、橋本清さん(元巨人)がいた。吹田市の実家を出て寮生活を送っていたのだが、上下関係にはとても厳しいものがあった。 シートノックでの出来事だった。シートノックとは、各選手が自分のポジションの守備についてノックを受け、各塁に送球する練習のことだ。PL学園では一年生も二、三年生に混じってシートノックを受けることができた。私の順番となり、コーチのノックした打球を捕って、ファーストに投げた球が微妙にそれた。もちろん、腕を伸ばせば捕れるような位置だった。 ところが、ファーストを守っていた先輩は微動だにしない。胸の前に構えたミットを動かそうとしなかったのだ。私の投げたボールは、あえなく後ろに行ってしまっている。これは、PL学園でのシートノックでは当たり前のことだった。胸元に投げられず後方にそれたボールは自分で取に行かねばならなかった。しかもシートノックは三年生から一年生まで合同で行っている。上級生はまったくと言っていいほどエラーをしない。そこで一年生がエラーをすると練習がとまってしまうのだ。その場で怒られることはないのだが、先輩がものすごく怖い顔をしている。そのプレッシャーたるや半端なものではなかった。 PL学園に入ってすぐに私はセカンドからショートにコンバートされた。同じポジションには天才と言われた立浪さんがいたため、少しでも技術を盗もうと練習に明け暮れた。そして二年生の夏、背番号14番でベンチ入りすることができた。春夏連覇のかかった甲子園決勝戦。サードを守っていた先輩が怪我をしたため、私は8番サードで先発出場することになった。守備力を買われての抜擢だった。 相手は常総学院だった。監督は名采配で「木内マジック」と呼ばれた木内幸男監督だ。木内監督の目には、突然出場した二年生は「穴」に見えたのだろう。それも当然だった。「あのサードを狙え」。立ち上がりから、何度も三塁前にセーフティーバンドを仕掛けてきた。五回までに6個もゴロをさばくことになった。当時の私は夢中でプレーするしかなかった。 日々の練習が生きたプレーがあった。4対1で迎えた八回にはレフト前にタイムリーを打たれ、2点差に迫られてしまった。その時、中継に入った私はバックホームは間に合わないと思い、すぐに一塁に送球した。オーバーランした打者走者が視界に入っていたからだ。これがアウトになり、相手に試合の流れを渡さずにすんだ。9回に追加点を奪ったPL学園は春夏連覇を達成した。 得てしてそういう瞬時のプレーは、暴投になってしまうことがある。ましてや、甲子園という大舞台ならなおさらだ。ところが、PL学園の練習で鍛えられた私はストライクを送球することができた。ボールを捕ってくれない怖い先輩のおかげで、自然と鍛えられていたのだ。 × × 誤字脱字写し間違いあります。 |