未来社会は理想 (非現実) の社会である。だから、我々は未来に夢や希望を託すことができる。
未来社会の内容は、未来時制でつづられている。
だが、日本語に時制はなく、日本語脳には未来時制の文章内容はない。
文章がなければ意味もなく、発言内容の矛盾も指摘できない。だから、議論にもならない。
日本人は、非現実の内容に整合性を持たせる知力に欠けている。非現実の話をすると理想ではなくて、空想か妄想になるので、誰も相手にする者はいない。
高等教育機関にとどまっていても、脳裏に非現実の世界の展開が期待できないので、’実社会に出なければだめだ’ という結論になる。
日本人の知力は、暗記力ではかられる。この計測法は客観的ではあるが没個性的で、試験地獄を伴っている。
現実ばかりの世界にいては、非現実を現実に変えるという創造力を養うことは難しい。
特亜三国 (日本・韓国・中国) の言語にも時制はなく、特亜三国人の脳裏には未来時制の文章内容はない。
未来社会は理想の社会であり、大同となる考えであり、国際協調の礎となる。
小異 (現実) を捨てて大同につくのが、理想社会に関する建設的な話し合いである。
無哲学・能天気の民には、あるべき姿 (大同) の提案はない。小異に関する激論ばかりに明け暮れている。特亜三国人は、非建設的な議論をする烏合の衆である。
小異に関する民族的な熱中は、北東アジアの不安定要因をなしている。
特に中国は、市民統制による市民社会の建設を目指していない。昔ながらの覇者の国である。
民族主義・国家主義など現実を強調するばかりでは、理想的な地球村の出現には至らない。我々には哲学が必要である。
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