>Hint-Pot >❞あいさつ不要論❞ が出る日本とは対照的 買い物や交通機関でもあいさつ必須のイギリスやフランス 日本人女性が感じたことは >Hint-Potの意見・ >6時間・ >旅行するときの注意事項としてよく見たり、聞いたりするのは「人に『Thank you(ありがとう)』、フランス語では『Bonjour(こんにちは)』などを言いましょう」というあいさつのマナー。 >しかし、果たしてそれは本当なのでしょうか? >日本からひょんなことからイギリスに移住、就職し、海外在住歴7年を超えたMoyoさんが外国暮らしのリアルを綴るこの連載。 >第52回は、イギリスやフランスでのあいさつにまつわるマナーを紹介します。 >◇ ◇ ◇ >あいさつがないと始まらない日常風景 >日本を離れて海外を旅したり、いざ暮らしたりすると、驚きの発見が何かしらあることは間違いありません。 >これまでの連載でもいろいろと書いてきましたが、なかでも驚いたのは、日本とは比べ物にならないほどあいさつが頻繁に交わされることでした。
それは礼儀正しい外国人ということでしょうか。
>それは、私が初めて長期間の海外暮らしをすることになった、イギリスに着いてすぐに感じました。 >街のありとあらゆるシーンで、とにかくあいさつが飛び交っています。 >たとえば、カフェやスーパーマーケット、雑貨屋さん、レストランやパブといったお店に入店するとき。 >日本では、店員さんから「いらっしゃいませ」と声をかけられるのが一般的です。
日本の礼儀作法は序列作法になっていますからね。ものの上下を間違えると大変なことになりますね。
>しかし、イギリスではどこへ入るのにも、とにかく客側からのあいさつから始まります。
それは、’上と見るか、下と見るか’ の挨拶ではないでしょうね。
>また、レジでの支払いや注文時など、店員さんとやりとりが必要な場合には必ず「Hi」「Hello」などのように、軽くあいさつをしてから本題に入ります。 >これはバスやタクシーなど交通機関でも、ホテルでも見かける光景です。 >バスに乗って、運賃を支払うためにオイスターカード(電子交通カード)やクレジットカードをピッと機械にタッチするときに「Thank you」とさっと言うのは普通。 >降りるときも「Thank you, driver!」と言っていく人をよく見かけます。 >タクシーやUberに乗っても、それは一緒です。 >また、ショップに入ったものの、何も買わずに出ることもあるでしょう。 >たとえ見るだけで終わったとしても、「ありがとう」「さようなら」などと言って去るのがマナー。 >何も言わない人も見かけますが、大部分の人があいさつをしているイメージです。 >このあいさつが飛び交うシーンに、最初はある意味びっくりしました。 >というのも、日本では客側が一切話さなくても、何も不自由なく物事が進むのが普通になっていますよね。 >それに比べて、こちらでは人と接するときは何かしら必ず言うと言っても過言ではないかもしれません。 >あいさつのバリエーションがさらに多いフランス >その習慣に慣れたと思っていた私でも、フランスに移動してからまた驚きました。 >なぜなら、そのあいさつの頻度や範囲が輪をかけて広いから。 >冒頭に書いた「Bonjour(こんにちは)」はもちろん、「Merci(ありがとう)」「Au revoir(さようなら)」の3点セットは、いつでもどこでも欠かせません。 >さらに、向こうもあいさつをしてくれるのが普通なので、「Bon journee(いい一日を)」などと言われると「Merci, vous aussi(ありがとう、あなたも)」とお返しするまでがセット。 >ある程度定型化しているとはいえ、なんとなくどういう流れなのかがわかるまでは、少しどぎまぎしてしまいます。 >そして、このあいさつ一回に割かれる時間が長いのだなぁと改めて思いました。 >さらに、イギリスではあまりありませんでしたが、フランスでは店員さんなどのスタッフだけでなく、その場にいるほかの人たちにもあいさつをします。 >たとえば、病院の待合室に入ったときや、待っているときにほかの患者さんがいればあいさつをします。 >それに、お店に入るときや出るときも、ほかのお客さんがいれば声をかけますし、電車内で車掌さんが見回りで歩いて来たときなども例外ではありません。 >とにかくこれでもかというほど、さまざまな場面で、誰にも彼にも必ずあいさつします。 >ここまで徹底したマナーは、私も初めての経験。 >フランスへ引っ越した最初の頃は、言われてから初めてお返しするくらい、どこで言ったらいいかわかりませんでした。 >ところが、今ではもう、どこでも言うというマインドセットでいたほうが簡単なことに気づきました。 >つまり、一日中何かにつけて言い続けてもまったく不自然ではなく、逆に言い続ける必要があるかもしれません。 >日本では“あいさつ不要論”が議論になるほど、あいさつ自体を不要に思っている人、形式だけで気持ちのこもっていないあいさつはいらないと考える人もいると知り、驚きつつなるほどなぁと思いました。
日本人の礼儀作法は序列作法になっていますからね。日本人の序列作法を間違えたりすると相手を傷つけることになります。それで挨拶は日本人はかた苦しい生活を送らなければならないですね。
>あいさつは相手を敬い、敵意がないことを示す、簡単で有効な手段です。 >知らない人とあいさつすること自体に抵抗があったり、しなくてもある程度の平和が保たれたりしているのは、日本の治安の良さゆえなのかもしれませんね。 >前述した通り、日本では買い物のときなどにお店の人にすらあいさつしなくても成立することが多いため、あいさつのハードルが高くなりがちです。 >しかし、訪日外国人が年々増加し、職場などでもグローバル化が進むなか、あいさつの習慣は身につけておいてもいいかもしれません。
外国人はため口をきく人たちですからね。(ため口:相手と対等の立場でものを言うこと。)’人を見損なってはいけない’ という非難の無い社会ですね。
>Moyo(モヨ) >新卒採用で日本の出版社に入社するも、心身ともに疲弊し20代後半にノープランで退職。 >それまでの海外経験は数度の旅行程度だったが、イギリスへ語学留学ののち移住した。 >そのまま、あれよあれよと7年の月日が経ち、現在はフランスに在住。 >ライター、エディター、翻訳家、コンサルタントとして活動している。 >最近ようやくチーズのおいしさに少し目覚める。
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにしない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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