‘和をもって貴しとなす’ ということですか。
そうですね。
現実の内容は、小異である。現実の内容は頭の外にあるので、見ればわかる。’小異を捨てて、大同につく’ のが建設的な態度でありますが、結果はどうでしょうか。 大同の内容は、非現実である。非現実の内容は頭の中にあるので、見せることが出来ない。だが、話にはなる。話を聞いてもわかる場合もあるし、わからない場合もある。その話は現実離れがしていて、信じることが難しい。だから、我々には大同を示すことは容易でない。大同なくして小異を捨て去ることもできないので、小異の争いに明け暮れている。
商業主義の影響なのかな。議論をするためには、喧嘩が必要か。喧嘩をするためには、議論をしなければならないのか。
同感です。意見の正解は一つではない。暗記ものの勉強では片付かない。自分自身の判断が必要ですね。
小異をことあげして、自国の利益を得ようとするのですね。
我々は、歌詠みではいられませんね。’きれいごと’ とは、空理空論のことですかね。
自分に大同が無ければ実のある主張はできませんね。小異の主張と闘争本能だけでは、国際平和は保てないでしょう。
各国が自国に都合の良い歴史ばかりを作っていては、北東アジアの不安定要因は増すばかりですね。膠着状態になっている。
特亜三国 (日本・韓国・中国) の民には、’あるべき姿’ の勉強が必要ですね。
自分自身の ‘あるべき姿’ の内容を考えることなく、’協調か対立か’ のみを考えていたのでは、救いはありませんね。
もしもあなた批判することがあるならば、自由に批判して頂きましょう。もしもあなたに意見があるのなら、それを自由に主張して頂きましょう。それに対する復習・バッシングには十分注意しましょう。 大同を示さないのでは、小異を捨てる理由も見当たらず、国交の修復は不可能になりますね。小異を捨てて、大同に就く準備が必要ですね。そうすれば、未来社会の建設に各国の協力が得られます。 北東アジアの不安定要因は、人々が大同という未来社会 (非現実) の内容を真剣に考えることなく、目先手先の小異 (現実) にとらわれて闘争を繰り返していることにあるのでしょう。 ‘我々はどこから来たか’、’我々は何者であるか’、’我々は何処に向かうか’ などの命題に答えを出すのは西洋の哲学です。我々、東洋人には、その習得が難しいのでしょうね。
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