2017年04月28日(金) 

 

 

>地上戦を体験した沖縄においては歴史の教訓に基づいて、「個人の尊厳」を真に実現するように教育すべきである。

 

本当にそうですね。同感いたします。

何事も個人の判断が基本ですね。個人が確立しないところが、我が国の問題であります。個人のリーズン (理性・理由・適当) に基づく確かな意見が得られません。

この国がひっくり返った時にも、その責任者は出なかった。誰が責任者で、どう判断を間違ったのか。それが、今に至るまではっきりしません。とかく、この世は無責任。

 

>「公」への貢献は教育基本法に定めている通り、各人の「人格の完成」を深め、自主的になされるべきであって、人間を道具のように「公」のために利用すべきではないのである。(垣花豊順)

 

まさに、そうですね。個人の’自主的’ な態度が大切ですね。’Independent’ (自主・独立) は、アメリカ人が子供を褒めるところの褒め言葉でもあります。それができるのが、親の望みです。

「公」という口実で、個人を道具のように使うなど、情けないことですね。自分自身の「公」の内容を社会に対して明らかにする個人 (政治家) の存在が必要であります。

しかるに、日本人は本来、無哲学・能天気ですから、社会の ‘あるべき姿’ など説明できません。’あるべき姿’ は、’今はない姿’ であり、非現実の内容です。

現実のみを考える日本人にとって非現実の内容は、嘘・本当の嘘に当たる。’そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と現実肯定主義者は反論して顧みない。日本語文法には時制というものが無いので、非現実の世界を文章化することが出来ません。それを語る者もいなければ、尋ねる者もいません。だから、哲学の教育は我が国では成果が上がりません。英米の高等教育は、我が国に移植不可能な状態にあります。

個人判断を可能にするには、自己の哲学 (非現実) を持つことが必要であります。自分はどのような世界・社会に住みたいかという、その内容です。その非現実の内容を基準にとって現実の内容の適不適を判断します。それができれば、個人が確立したことになります。その人を信頼することができます。

しかしながら、非現実の内容の文章ができないと、過不足のない (矛盾を含まない) 考えにはなりません。日本語では時制が無く、文章ができないので、やってみても矛盾を排除できな無いので、絵空事になってしまいます。だから、誰にも信じられない。万事休す。

現実のみしか頭の中にない人間は、現実の内容を基準にとって物事を判断するより外ありません。すると、現実に流されます。没個性の社会には、責任を持って答えてくれる個人の見当たらない悲劇が発生します。

民主主義は、最低です。しかしながら、これより優れた政治制度は現在のところ発見されていませんので、我々はこの制度を採用せざるを得ません。民主政治は衆愚政治に陥りやすいので、気をつけなくてはなりません。他をみて、それを基準とする人間ばかりでは、衆愚は避けられません。我々一人ひとりに哲学が必要です。さすれば、信頼できる個人が確立します。人格の完成になります。

民主主義は多数決原理で成り立っています。自主的な判断をする個人の割合が多いほど信頼できる国になります。外国人からも信頼を得て国際社会において、名誉ある地位を占めるに至ることでしょう。

 

 

 

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閲覧数656 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/04/28 19:00
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