2017年05月06日(土) 

 

 

 

>最近「未知」の追求を行う事が多いが、その基底となる前提条件は学者が発表しているものだったり、誰かの知識だったりする。

>しかし議論が進めば進むほどもともとの基底条件は果たして真実なのか疑問を持つようになった。

信頼できる情報源を見定める必要がありますね。


>例えば学者はタバコの毒性を証明するためにマウスに喫煙させ、その僅かな肺がん発症数から、タバコの毒性を証明したと言い張っている。
>これは農薬や排気ガスなどの人工物質による発がん数増加をタバコのせいにするために行われた実験と言われているが、人工物質単体が発がん性のものであるということもまた実証はされていない。
>このように世の中に溢れている情報のどれが真実なのだろうか。

矛盾のない主張は、すべて真実・真理 (the truth) でしょうね。だか、真理・真実は変わる、進歩する。

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>テレビでニュースを見ていて思うのですが、報道にも事実と真実の2面があります。

>例えば凄惨な事故が起きたとします。

>その場合、「事故が起きて◯人が負傷し、△人が亡くなった」というのは「事実」です。

>しかし、コメンテーターや報道記者の考えが少しでも含まれた事故が起きる原因の推察や感想は「真実」に過ぎません。

 

日の下に新しきものなし。我々には、真実・真理 (the truth) の探究が必要ですね。一人ひとりに、それぞれの真理・真実がある。それが個人主義です。


>完全に間違っているから信じるなというわけではなく、ひとりの人間というフィルターを通して見た真実であって、それが100%正しいことではありません。

 

矛盾がなれれば、それは正しい。矛盾があれば、それは正しいことでありません。矛盾を発見すれば、それは指摘できますね。

 

>全てを疑って生きるのは辛いことですが、安直に信じてしまうのは非常に危険です。

 

‘われ思う、ゆえに我あり’ でしょう。我々は、全てを疑って生きるべきです。

 

>世間に広まる事件・事故などの真相は、多くの人が信じたことが次第に力を持って「揺るがぬ真実」にレベルアップするからですね。

 

まず疑うことが、必要ですね。矛盾が無ければ、それは真実・真理です。


>そうして真実は造られるのです。

 

真理の探究により、人類の進歩します。


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>つまり第三者的に観測して得られる情報が「事実」
>そこに私情が挟まると「真実」になるということです。

 

私情というのは、どうでしょうかね。考察でしょう。真理・真実は我々の知的労働の成果です。

>しかし筆者は終わりに、「私が述べた使い分けが100%正しいとは限りませんよ。真贋を見抜くのは、あなた自身です。」と延べているように、結局は観測者が「事実」をどう「真実」と捉えるかが鍵となる。

 

我々は、’考える人’ にならなくてはなりませんね。事実・現実の内容は頭の外に存在する。考え・真理の内容は頭の中に存在します。両者は同じにはなりませんね。子供の内容は、頭の外だけです。


>このように不確定な「事実」を多くの人々と共認することは果たして可能なのだろうか…。

 

情報過多の時代ですからね。惑わされないようにしましょう。自分自身で適当な事実を選び出して、真理の探究に励むのが良いでしょう。その内容は、一人ひとりが違っている。そしたら、相手と議論できます。教養ある人になれます。我々一人ひとりに哲学が必要です。

 

 

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閲覧数359 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/05/06 08:43
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