2024年12月21日(土) 

 

>プレジデントオンライン   >「国家公務員試験トップよりも「予備校模試1位」の方が尊敬される…元経産省官僚が目撃した霞が関の謎文化   >じゅそうけん、宇佐美典也、西岡壱誠の意見・   >5時間・   

 (略)   

>霞が関で行われている「学歴マウント」の実態   

>宇佐美典也 制度アナリスト   

>1981年生まれ。   

>東京大学経済学部卒業後、経済産業省に入省。   

>2012年に退職し現職。   

>西岡壱誠 東大生作家   

>1996年生まれ。   

>東大合格のノウハウを全国の学生や学校の教師たちに伝えるため、株式会社カルペ・ディエムを設立し、代表に就任。   

>【じゅそうけん】宇佐美さんにぜひお伺いしたかったのは官僚の世界における「受験天才」のリアルについてです。   

>大蔵省(現・財務省)出身の片山さつきさんが、鳩山邦夫さんに対して「私は全国模試1位でした」とマウントを取ったという学歴厨エピソードは有名ですよね。   

 

[「マウント」とは、人類を含めた哺乳類が、相手の上に向かい合った状態で馬乗りになる、乗りかかる行為を指す。登る、乗る、またがるを意味する“mount”が由来。マウントを取る行為は、自分の優位性をアピールすることを意味する。その延長で、容姿や仕事、お金や恋愛について話す様々な場面で、互いに“格付け”し合い、相手よりも上に立とうとする言動や行為の全般を表す。]      

 

>ほかにも、僕たちのまだ知らない「受験天才エピソード」や「学歴厨エピソード」が、霞が関に眠っているのではないでしょうか。   

 

日本人の好きそうな話ですね。   

 

>【宇佐美】まさに「模試の成績」は語り継がれますね。    

>「模試1位同士でナンバーワン・ツー争いをずっとやってる」みたいなこともありました。   

>自分は予備校に行っていなかったからその手の情報に疎くて、大学入学時にも入省時にも事情に詳しくなかったのですが、「予備校勢」みたいな連中が「あれが模試上位の○○か」みたいなことを言い合っているのを目にしてきました。   

>【じゅそうけん】「模試の成績」は、学歴好きが最もテンションが上がる話題の一つです。   

>昭和の頃からずっと変わらない組織文化といわれます。   

 

序列メンタリィティの賜物ですね。   

 

>予備校模試の成績優秀者はずっと語り継がれる   

>【宇佐美】ヤンキーみたいなんですよ。   

>「あれが関西の雄!」みたいに一目置き合っている。   

>もちろん模試の成績だけじゃなく「学歴」が話題になることもありますよ。   

>【じゅそうけん】国家公務員採用総合職試験(旧I種)の試験の順位よりも「模試」の点数のほうが幅を利かせるんでしょうか。   

>【宇佐美】はい、総合職試験よりも、明らかに「予備校模試の1番・2番」のほうが格式が高いんです。   

 

身分・格式の話は昔からありましたね。   

 

>もちろんI種の試験で1番とか2番みたいな飛び抜けた成績の人は目立つし、財務省は採用試験の点数にもある程度こだわるかもしれませんが、それ以外の省庁はそこまでこだわらない。   

>人事担当者にとっても、採用試験での点数は「横並びになったときにどちらを優先するか」くらいの限定された意味しか持たないですから、多くの人は「受かっているわけだから、とりあえずいいよね」くらいの感覚だと思います。   

>それに比べれば、予備校模試の成績優秀者はずっと語り継がれるし、格式が高い。   

 

予備校模試の結果は人間価値のバロメーターですか。   

 

>【じゅそうけん】そこまで格式が高いとは、驚きです。   

>模試の順位表は、上位者だけの名前が開示されるから、特異な文化を生み出しやすい仕組みでしたよね。   

 

特異な文化ですね。   

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。そうでなければ不公平になる。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

 

>SAPIX1位から5位が理三で再会   

>【西岡】ちなみに、いまは氏名が見られる模試の順位表はなくなっているんです。   

>かつては1番から100番ぐらいまで名前が出る模試がありましたが。   

>【宇佐美】なんと、なくなったんですか!    

>時代の流れに合わせてということですか。   

>【西岡】はい、個人情報漏洩の観点からなくなったんですよ。   

>でも僕の頃にはまだありましたし、名前が出てたひとは「伝説」とまではいかないまでも、やはり一目置かれていました。   

>受験から半年ぐらい経った頃の大学一年生のクラスの中で、誰かが模試の順位表を持ち出してきて「あ、あいつの名前あるぞ!」みたいなことをやりはじめる。   

>世の中、誰しも「数字」とか「順位」が大好きなんだなと内心すこし呆れました。   

 

そうですね。結果を数値化しますと序列順位がはっきりしますね。日本人は序列を見ると、それが守るべき尊いものであると信じる傾向がある。だから、皇民化教育もやりやすい。         

 

>小学6年生ぐらいの時のSAPIX模試で名前が出てたやつがそのまま東大入っている、なんていうのもよく聞く話です。   

>【じゅそうけん】SAPIX模試の1位から5位の方々が理科三類(東大の最難関)で「再会」したという話も聞いたことがあります。   

>名前だけはお互い長年知り合っているのに、本当に出会うのは大学だというのが面白い。   

 

出会いに何か意義があると良いのですがね。   

 

>「とりあえず理科三類」の大問題   

>【宇佐美】ただ、優秀な人が揃いも揃って理科三類に入るということが、その人たちの人生にとってよいことなのかどうかはわかりません。   

 

個性の大切さを忘れていますね。   

 

>達成感がもの凄いからか、入学後にスポイルされてしまう人も一定数いる。   

>そして理科三類に行かなかった人のほうが、案外大成したりもする。   

 

日本では子供が熱心に勉強する。子供の勉強は他人の受け売りとその後追いである。成功して日本で通じる序列順位を獲得する。   

アメリカでは大人が熱心に勉強する。大人の勉強は自己の個人的見解を明らかにすることにある。成功して高等教育機関より世界に通じる学位 (博士号など) を得る。      

だから、日米が戦争をすると子供と大人の戦争になる。   

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)  

 

>【西岡】そこは大問題です。   

>「理科三類」にはとてつもないブランド力がある。   

>ですが、たとえば「海外の大学に行く」といった他の選択肢を見えにくくする側面もある。   

>その人にとって一番よい選択肢は他にあるかもしれないにもかかわらずです。   

>【宇佐美】同期を思い浮かべても、そういう印象はあります。   

>小学校の時から優秀で、絶対理三に行くだろうと思っていた人がいるのですが、意外なことに慶應医学部に入りました。   

>そして今『ネイチャー』に論文を掲載している。   

>そういう方の人生を見る一方で、理三でスポイルされた人たちも沢山見てきました。   

>合格で燃え尽きるのを見るのはつらいことです。   

>【じゅそうけん】灘高校などには「とりあえず理科三類」みたいな流れさえもがあるそうですね。   

>しかしせっかく優秀な若い方々であればこそ、視野を広く保っていただくのが大事だと感じさせられます。   

 

それは無理ですね。学力試験は没個性でなくてはならない。だが視野を広く保つには個性的な教育をしなければならない。     

 

>なぜ東大生の官僚離れが起きているのか   

>【じゅそうけん】「東大文一」から「霞が関」というルートもかつては鉄板でした。   

>「東大至上主義」が官庁の中にあったともいわれます。   

 

井の中の蛙ですね。難関出身者が閥 (序列) を作って自己利益を確保する。地方色ですかね。東大よりましな大学は世界に一杯あるのに。その意味が分かっていない。         

 

>しかし近年は「東大生の官僚離れ」がしきりに言われて、時折ニュースでも取り上げられていますよね。   

(略)  

>組織は「志がある人」ばかりでなく、「志がない人」や「斜に構えた奴」がいるというのが大事なのだと思うのですが、「志がある人」にとっても「斜に構えた奴」にとっても居づらい職場になってきている。    

>【じゅそうけん】そして、官僚養成学校としての東大文一だからこそ、それを古くからひっそりと支えてきた「先輩と後輩の関係」を通じて「綻び」が波及していくというわけですね。   

 

人間序列に付きまとう禍ですね。   

 

>優秀な人材をまかえなくなってきている   

>【西岡】正直にいえば、官僚になった先輩に話を聞いてみて「官僚なんていいことないよ」という評判を耳にする頻度は少なくないように思います。   

(略)  

>「真面目に勉強すればこの国を動かせるんだ、そういう風に世の中はできているんだ」と心に深く刷り込まれているから、30代半ばから後半ぐらいになって、なんとなく「お国のために」モードに変わるようなケースも目にはします。   

 

そういう人は政治家にならなくてはなりませんね。   

 

>しかしそういった人たちだけで、「もうこのシステムではやっていけない」と思って辞めてしまった人の欠員を埋められるか。   

>もはや法律の条文を書く、税率をいじる。   

>そういった「官僚にしかできない仕事」への職能人気だけでは、必要最低限の法学的知識を備えた人材すらまかなえなくなるかもしれません。   

 

官僚の生活はあくまでも従属的ですからね。  

 

(略)   

 


閲覧数6 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2024/12/21 09:20
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