2017年06月18日(日) 

 

>私はこれまでも、新理論を構築するためには、近代思想を全的に否定する必要があると考えてきた。

 

それは、大変なことですね。

 

>そして、「自由」「個人」「人権」等の架空観念を、近代思想の要と見てきた。

 

それは、良くないですね。近代思想を架空観念と呼ぶのが良くないですね。思想は全て架空 (非現実) ですが、それらは我々の理想ですね。

 

>しかし、これまで民主主義については(その怪しさを重々知りつつも)、全的には否定し切れないでいたが、近代思想の本丸は実はこの「民主主義」にあったのではなかろうか。

 

今のところ民主主義に代わるものはないでしょう。

 

>実際、庶民レベルでは「個人」や「人権」という言葉はあまり使われなくなったが、「民主主義」だけは根強く支持されているし、今もアメリカが他国を侵略する口実は、「民主主義(ではない国は破壊すべき)」である。

 

‘個人’ ‘人権’ が下火になったのは、残念なことですね。非民主的な国は、消滅の運命にあるのかもしれませんね。


>人々が民主主義を肯定視する理由は、その「民が主」という主張が、いかにも共認原理に立脚しているもののように感じられるからである。>私が全的に否定し切れなかった理由も、そこにある。>だが、「民主主義」は、本当に共認原理に立脚しているのだろうか?>それを、人類本来の共同体の共認原理と突き合わせてみることによって、明らかにしていこう。

 

>共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。

 

そうでしょうね。

 

>従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。

 

身分制度の始まりですか。

 

>従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。

 

長老一任は、大統領制の様なものですね。長老は、成員に信頼されていなければなりませんね。上意下達の励行ばかりでは、やり切れませんね。

 

>それに対して「民主主義」は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。

 

成員の大多数が、学ぶことが大切ですね。

 

>例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。

 

我々は、専門家の説明を聞かなくてはなりませんね。専門家同士の議論も聞く必要があるでしょう。そして、彼らを信頼することです。

 

>とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか?

 

我々には、信頼が大切ですね。心臓病にかかっている子供の命を救いたいと考えている母親は、心臓外科医を信頼する必要がありますね。我が子を救うために自分自身が心臓外科医になる必要はありません。信頼に満ちた、便利な社会を建設しましょう。’信なくば立たず’ です。

 

 

 

 

 

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閲覧数423 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/06/18 11:14
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