2018年12月27日(木) 

 

 

>「考える自由のない国―哲学対話を通して見える日本の課題」

>哲学を求める時代?

>ここ数年、私 [梶谷 真司(かじたに・しんじ)] は「哲学対話」という活動を通して様々なところに関わってきた。>哲学対話とは、子どもたちの思考力を養うために70年代にアメリカで始まった「子どものための哲学」に由来する。

 

何事もアメリカが始まりのようですね。

 

>それは、哲学者の思想を教えたり抽象的な問題について議論したりするのではなく、各人が一人で思索にふけるのでもない。>身近な問いから出発して、グループで一緒に問い、考え、話をしていくものである。

 

‘Everyone needs a philosophy’. (各人に哲学は必要である) ですね。受け売りの練習は、必要ないですね。

 

>中学校以上が一般的だが、小学校や幼稚園で行われることもある。>いずれにせよ、共に話すことを通して共同で思考を広げ、深めていくのが哲学対話である。

 

そうですね。哲学的な対話が大切ですね。

 

>哲学対話がどういうもので、たんなる対話とどこが違うのか、ここで詳しくは述べられないが(齋藤元紀編『連続講義 現代日本の四つの危機 哲学からの挑戦』(講談社選書メチエ)に所収の拙論「対話としての哲学の射程」を参照)、とりわけ重要なのは、「何を言ってもいい」「否定的なことは言わない」というルールである―何を言ってもいいからこそ、思考に広がりと深まりが出てきて、対話が哲学的になる。>これは、とくに教育現場では、思考力の育成につながる。

 

そうですね。’あれではいけない・これではだめだ’ の議論は、御法度ですね。通常話されている実況放送・現状報告の内容では、対話が哲学的になりませんね。

 

また否定的なことを言わないことは、他者の尊重につながる。

 

そうですね。他人の足を引っ張るような不作法な真似をしないのですね。それは良いことですね。

 

>それゆえ哲学対話は、考える力を育てるだけでなく、他者との相互理解を促し、学校でのクラスづくりや、会社などの組織づくり、地域のコミュニティづくりなど、様々な集団内の人間関係や連帯感の強化にも貢献する。

 

哲学対話は、建設的な態度を促進しますね。

 

>私自身、ワークショップを開催するほか、小学校や中高、都市や地方の地域コミュニティ、高齢者の集まりの場など、様々なところで哲学対話を行ってきた。>そうした活動を通して、これらに共通する問題が見えてきた。

 

小学生にも高齢者にも共通する問題があるのですね。

 

>それは自由に話し、自由に考えられる場がないということ、そして、その結果、自分の行動、自分の生き方に責任がとれないということである。

 

そうですね。同感です。日本人には、自由に考える余地がないですね。

日本語は、現実を表すための言語であります。実況放送・現状報告の内容を表現します。現実は見ることができます。見ればわかります。唯一の正解のある世界です。

非現実 (考え) 内容は、見ることができません。だから、言語を理解しなければわかりません。だから、非現実の内容の理解には、頭を使います。非現実の世界には、多数の正しい考えが存在します。

非現実は、頭の中にある。現実は、頭の外にある。両者は所在が異なるので、内容も同じにはなりません。

 

日本人の判断によれば、見ることのできる内容は ‘本当’ のことである。見ることのできない内容は、’嘘’ である。かくして、日本人は、嘘・本当の世界に住んでいる。これは現実の世界である。誰しも、嘘つきにはなりたくない。だから、自分自身の非現実の (考え) の内容については話さない。だから、自由に話し、自由に考えられる場が現実の中には存在しない。

非現実 (考え) の内容を文章にするには、文法に時制 (tense) というものが必要である。時制は、英語にあって日本語にはない。だから、日本人は、自分の考えを話すのに難渋している。

矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は唯一ではない。矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えになる。だから、対話が役に立つ。

 

日本人には、意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容になっているが、日本語文法には時制 (tense) というものが無いので、日本語の脳裏には未来時制がない。だから、日本人には、意思がない。英語には時制があって、英米人には意思がある。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない日本人は仕方がないので、無為無策のままでいる。だから、自分の生き方に責任が取れない。

 

責任とは、responsibility (応答可能性) のことである。応答は、個人の意思の表明により行われる。意思のない日本人は、優柔不断・意志薄弱に見える。とかく、この世は無責任である。

自己の意思を表明すれば、当事者・関係者となる。表明しなければ、傍観者にとどまる。わが国は、世界の中に存在して、世界に属していない。

意思の内容は、非現実 (考え) である。時制のある文章の内容は、言語機能が未発達の子供には難しすぎて作文できない。それで、大人が子供の意思を代弁することになっています。

 

>考える力はいらない?

>ずいぶん前から巷では、思考力やコミュニケーション能力が必要だと言われている。

 

実況放送・現状報告の内容のことですね。

 

>企業の国際競争力を上げるには、新しい発想を取り入れ、イノベーションを起こさないといけない。

 

主体的な行動を起こす必要性が指摘されていますね。

 

>グローバル化が進む世界では、時に衝突もしながら、いろんな国や地域の人たちと一緒に働かなければならない。

 

協力関係の構築が必要ですね。

 

>そのために学校では、クリティカル・シンキングやコミュニケーション能力を向上させようと、ディスカッション、グループワークなど様々なことが試みられている。

 

対話能力が必要ということですね。

 

>子どものうちから「自ら考える力」をつけ、異なる立場の人と意思の疎通を図り、協同していく資質を伸ばす。

 

日本人には意思がないから、意思疎通は無理でしょうね。疎通は、恣意疎通 (阿吽の呼吸) になりがちですね。これには、問題がありますね。

 

>そうやって将来、社会に貢献でき、また自立した人生が送れるようになろう、というわけである。

 

社会貢献・自立人生ですね。良いことづくめですね。

 

>こういう動きを見ていると、考える力は世の中で強く求められ、それを育てようとする動きも活発になっているように見える。

 

そうですね。考える力は大切ですね。活発になると良いですね。

 

>しかし自由にものを考え、思考を広げ深めるには、上で述べたように、「何を言ってもいい」ということがきわめて重要である。

 

言論の自由は根本的に大切ですね。

 

>ところが実際には、「何を言ってもいい」ということは、世の中でほとんどない。>それは自由にものを考えられる場がないに等しい。

 

そうですね。’ものいえば、唇寒し秋の風’ ですね。わが国民の深刻な問題ですね。

 

>しかもそれは、子どもだけの問題ではない。>大人や社会人、さらには引退した高齢者も同じ問題を抱えている。

 

そうですね。子ども大人、社会人高齢者は全て日本語を使用していますからね。当然、非現実 (考え) の発想には、難渋することになりますね。

我々日本人は、日本語と英語の両方を勉強して、文法における時制の大切さを十分に理解して、非現実 (考え) の内容を文章にして表現することが必要ですね。それから、他との意見交換を盛んにしなければならないですね。そうすれば、我々日本人は、言論の自由を得ることができるでしょう。

 

(略)

 

 

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閲覧数712 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/12/27 13:55
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