>日本語は、多様な敬語が体系化されて用いられている珍しい言語だそうだ。
そうでしょうね。
>たとえば、「行く」という動詞を丁寧語で言うと「行きます」。> 尊敬語で言うと「いらっしゃる」「おいでになる」「行かれる」。> 謙譲語で言うと「伺います」「参ります」「○○しにあがります」などとなる。
相手を上と見れば尊敬語、自分を下と見れば謙譲語となる。上とみるか・下とみるかに関係がなければ、丁寧語になる。上下判断を駆使するところが、日本語・日本人の特徴ですね。
> 日本語の敬語は、同じ意味の言葉が動詞の活用(≒語尾の変化)という領域を超えて、別の単語になってしまう。>なおかつ、これを相手との関係性に応じて使用する“相対敬語”である。
韓国は、絶対敬語。わが国は、相対敬語。中国は敬語なし。ですね。
> 外国人が日本語を学ぶとき、大半が敬語で挫折するらしい。>日本人ですら適切に使えない場合があるのだから、無理もない。
そうですね。世俗の番付表に関する知識がないと、序列判断ができない。だから、外国人は挫折する。
>では、このように日本語の敬語表現が発達したのはなぜだろう?
敬語表現は、一種の文法なのでしょうね。それがないと気持ちが悪いもの。英語・英米人の世界観 (world view) のようなものではなかろうか。
> 敬語の起源は定かではないといわれているが、有意な仮説(論文要旨)を見つけた。>以下『敬語の原理及び発展の研究』リンク (PDF)より。
それは、幸運なことですね。
>―――――――――――――――――――――――――――――――――― >~前略~ > 日本は自然を神として畏怖する原ユーラシアの多神教的宗教観を、現代まで保持し続ける世界でも稀な国である。>日本の自然は、平素は穏やかで美しく実り豊かだが、数年ごとに各地で大災害を引き起こし、日本人にとって賛美し畏怖すべき親のような存在であった。
自然は、力の強い存在ですね。その祟りは恐ろしい。
> 自然の圧倒的な力の前には人間はまったく無力であったから、日本人は自然を凌駕したり改造したりする意欲を持たず、死者は自然に帰って神の仲間入りをするから、日本人の宗教は基本的には先祖崇拝であり、先祖の秩序を乱すことを忌んだ。
そうかもしれませんね。
> 日本語においては音を延ばすと遠くへ伝達する表現になる。「おい」と「おーい」の例でもわかるように、これは現代でも連綿と行われており、原始時代においてはこの遠隔表現がウタ(和歌の原型)であった。
歌詠みの始まりですか。
>日本人の世界認識はウチ・ソトで、ウチは自分を中心とするごく親しい人間、ソトはそれ以外の森羅万象で自然も含まれる。
ウチは、自己の所属する序列である。ソトは、それ以外である。鬼はソト。これらは、あくまでも現実の内容のことです。
>原日本人はウチへの伝達には普通の言葉を使い、ソトに対しては音を延ばして言うウタを使った。
銅鑼の音のような声でないと、遠くには届きませんからね。
>日本に上下の階級秩序が発生すると、このソトに対する言葉遣いは、上位者に対しても使われるようになり、また上位者から下位者への返事にも使われるようになった。
上位者は、ソトの存在と同じになったのですね。
> 日本の上位者は自然の持つ三徳(寛容・鷹揚・寡欲)を要求されたため、下位者がウタによって訴える願いやお詫びを寛容に聞き入れ、上下の交流はウタの交換によって行われてきた。
‘初めに上位ありき’ ですね。
>ウタが五七五などのリズムや掛詞などの修辞技巧を凝らし、歌となって芸術への舵を切ったとき、日常の訴えのための待遇表現が必要となり、それが敬語となったのである。
歌詠みであっては日常生活に支障があるので、敬語が発達したというのですか。韓国のような歌詠みのない国では、敬語はどのようにして発展したのでしょうかね。
>この敬語は日本独特で、上下の階級間の橋渡しとなる意義をもっており、筆者は「階級遵守語」と命名する。
階級遵守語は、橋渡しというよりも序列順位の固定に役立っているようですね。
> 日本の歴史を通覧すると、下位者が階級遵守語を使って上位者にお願いやお詫びをすれば上位者は寛容にこれを聞き届け、両者一体となって社会を担っていく意識を持ち続けてきたことが瞭然となる。
‘天皇は国民の為、国民は天皇の為’ というやりかたですか。’誰一人お上を恨む者無く’ ということになるのでしょうか。上位者による下位者への抑圧は無かったことになるのですかね。下位者になればなるほど不利になるのでしょう。
>そのため、前近代の日本においては、身分階級秩序が世襲で交替できないにもかかわらず、革命やクーデターがほとんどなく、しかも上下の交流が活発に行われて抑圧社会とはならなかった。
序列社会の固定化による諦めですね。無哲学・能天気の人々の ‘打壊し’ では、革命やクーデターは成功しないでしょうね。自由・民権の運動は無意味ということになりますか。’不自由を常と思えば不足なし’ という抑圧社会ではなかったのですか。
>敬語があったからこそ、かえって言いたいことが言えたのである。
敬語があるから、上下社会ができたのか。上下社会があるから、敬語ができたのか。同じく敬語を使う韓国人は、その答えを見出しているのかな。
>だが、このような社会運営に不可欠な敬語システムは、明治維新によって崩壊した。
維新により序列社会の固定は不可能になったのですね。新型の序列社会になったのでしょう。
>それは明治新政府の権力者が生まれついての上位者ではなかったため、三徳を持ち合わせず狭量に下位者を抑圧し、しかも富を独占する強欲に走ったからである。
明治時代に立身出世の機運が高まりましたね。
>下位者もまた我が身大事の臆病者となり、前近代の下位者の持っていた社会運営の当事者たる覚悟も勇気も、上位者を階級遵守語によって操る言語技術さえも失ってしまった。
水平の社会が到来したのですね。それにしても、老若男女の全てが、自分のことを ‘俺・俺’ と呼ぶ社会にはならなかったですね。
> ~後略~
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