>369958 日本の教育問題はどこにあるか >匿名希望 ( 27 会社員 ) 21/08/24 PM09 >日本の教育問題は、社会状況が変化していく中で何も変わっていません。 >昔から変わらぬ教室、教科書、授業方式、カリキュラム。 >このような体制で本当に子供たちの将来に役に立つのか。 >疑問に思うところが多くあるように思います。 >----------------------------以下引用---------------------------- >リンク >日本の教育は150年もの間、変化をしていないというのは本当のようです。
日本人のメンタリティ (考え方) は不動のようですね。 言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段ですね。日本語が変わらないから、日本人のメンタリティも変わらない。
>日本は戦前戦後、海外のさまざまな文化を取り入れて発展を遂げてきました。 >そんな中でも150年も変わらない日本の教育システムがあります。
そうですね。’取り入れる’ の文化は変わらなかった。暗記の文化ですね。
>■日本の教育の問題点その①「集団&受け身スタイル」 >日本では集団教育や一方的な講義スタイルの授業が特徴的です。
伝達があって、思考がない。 ‘信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがよい。’ フランシス・ベーコン ‘読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。’ アルトゥル・ショーペンハウエル
>先生の授業をクラスの生徒全員で聞き、学期末にテストを実施し、その結果で成績を決めるというスタンスです。
日本の教育の目的は人間序列の形成にありますね。
>諸外国の教育方法とは全く異なる、常に生徒が受け身の姿勢となる教育です。
日本人には意思がない。だから、受動があって能動がない。 日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。 意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
>授業は生徒が分からなくても勝手に進み、反対に分かっていても飛ばすことはできません。
個人の都合は完全に無視されていますね。個人主義 (individualism) は利己主義 (egotism) と間違えられますね。
>子供一人一人の能力を伸ばすよりも集団で足並みを揃えることに重点が置かれています。
集団で足並みをそろえるためには、出る杭を打たなければなりません。没個性が日本人の理想ですね。
>このような集団&受け身スタイルの教育では個人個人の得意な分野や眠っている才能を開花させたり伸ばしたりすることが難しいと思われます。
そうですね。
>■日本の教育の問題点その②「偏差値重視の勉強」 >「入試に合格するため」または「偏差値が高い学校に入るため」の教育がまさしく日本スタイルです。
日本人には ‘上と見るか・下と見るか’ の判断が最重要ですからね。 日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。 日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。 日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。 政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。
>偏差値や有名大学のブランドばかりを気にして、そこが最終目標のゴールと認識しており、そのゴールを目指すための勉強が日本では実施されています。>日本の親御さんや先生の多くは子供の志望校を選ぶ時も、偏差値を基準として判断し、偏差値重視で決定します。
そうですね。日本人の社会は序列社会 (上下社会・縦社会) ですからね。
>その子供の個性を見るのではなく、偏差値を基準として学校選びをするという現状です。
そうですね。何でも序列判断ですね。
>試験で成績や点数の高かった生徒が「優秀なすばらしい生徒」と考えられているため、試験で高い点数を取るための教育を保護者も求めているのです。
今でも見栄と外聞の世の中ですね。
>このような教育スタイルでは子供の個性が重視されず、試験のため、偏差値のための勉強という、本来の「自ら学ぶ」という勉強の姿勢からはかけ離れているという意見もあります。
そうですね。個人主義が完全に無視されていますね。だから、わが国には偉大な個人が育たない。
>■日本の教育の問題点その③「暗記学習に重点」 >日本の教育では「記憶する学習」=「暗記学習」に重点を置いているため、勉強内容は暗記することがほとんどで、子供が自ら考えたり疑問に思ったり、提案したりする能力が伸びないと言われています。
日本人は思考を停止していますから、内容を増やすためには暗記しかありませんね。暗記して受け売りするのが日本人の稼業ですね。 イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。 評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
>暗記する項目の背景や経緯などはあまり触れることは無く、ただそれを大量に覚えれば良いというスタンスです。
それを詰め込み主義の教育というのでしょうね。
>英語に関しても同じことが言えて、スピーキングやリスニングよりも文法から学ぶことに重点を置いています。 >日本史についても同じです。「〇年〇月に○○の乱」が起こったという事実を覚えることが先行し、その背景や何故そのような事になったのか、それで日本はどう変わったのか、などはほとんど勉強しません。
我が国では学生個人のリーズン (理性・理由・適当) を育てないですね。
>日本の教育ではテストの点数を上げることが一番重要とされているので、テストのために全て丸暗記してテストに備えるという学習方法なのです。 >これではテストが終われば忘れてしまうことが多く、社会人になった時には学校で学習した事はほとんど覚えていない(役に立たない)という結果になってしまうのです。
日本の教育は単なる処世術 (損得勘定) の習得ですからね。本物の学問とは何ら関係がない。国際社会での日本の大学のランクは落ちて行くばかり。
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