2021年10月08日(金) 

 

 

>目的を変えなければ手段は変わらない   >とはいえ、「だから日本で異なる意見を言えないのはしょうがない」と納得していいものか……。>さまざまな意見が尊重されない社会はきっと、とても息苦しい。

 

考えの内容は人人により違っている。だから人間には個性がある。異なる内容を言わなければ、没個性的である。それは、アニマルと同じである。自己実現は難しい。だから、とても息苦しい。          

 

>少しでも異端になれば、すぐにつまはじきにされるから。

>「じゃあ『日本でも異なる意見を言えるように心理的安全性を確保しましょう』と言えばなにか変わるのか」といえば、まぁ変わらないだろう。

>全会一致を目指すなかでは、「異なる意見が飛び交う環境」なんて必要じゃないもの。

 

そうですね。異なる意見は必要ないですね。だが、あらゆる選択肢を集めて並べて、その中で一番よいものを選択するのは賢明なやり方ですね。    

 

>戦争が科学を発展させたように、必要になれば技術は発展するし、需要がなければいつまで経っても進化しない。  

 

そうですね。必要は発明の母。Necessity is the mother of invention. 

 

>つまり、「心理的安全性が必要な状況」がなければ、それは発展しないのである。>だから一番最初にするべきは、「異なる意見を言ってもいいですよ」と言うことではなく、「全会一致ではなく、たくさんの意見を比較検討し一番いい意見を採用する」のを話し合いの目的に据えることだ。

 

そうですね。学問愛 (philosophy) の人達の社会が必要ですね。がり勉の人達の社会はあだ花でしかありませんね。

我々日本人は ‘考える人’ (the thinking man) にならなくてはならない。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)         

 

>全会一致方式から抜け出せば、おのずと、気兼ねなく意見をいう心理的安全性が必要になるのだから。

 

現実離れをしたことが言える社会にならなければ、わが国は全会一致方式からは抜け出せませんね。ところが、日本人は現実離れのした話 (哲学) は信じられない。      

 

>心理的安全性を高める2つのカギ   >全会一致方式から抜け出すポイントは、ふたつあると思う。>一つ目は、決定権を明確にすること。 

 

それは、唯一の神の存在を認めることですね。日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) があって、意思がない。だから決定権は与えられない。      

 

>「みんなで決める」の一番のメリットは、責任の分散だ。

>多数派に合わせておけばたいした責任をとらなくて済むから、適当なイエスマンが増える。   

 

そうですね。赤信号みんなで渡れば怖くない。一億総玉砕のようなものか。      

 

>反論すると責任が発生するからだんまりになる。 >それを回避するために、決定権を明確にするのだ。 >その場にいた全員の意見がどうであれ、決定の責任を負うのはたったひとり。 >判断を一任される責任者の心理的プレッシャーは、かなり大きいだろう。  

 

個人の意思を働かせると、それに伴って加害者意識も増大する。病める魂が増えて来る。幸いなことに日本人には意思がない。 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。  

日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。ノー・アイディアで暮らすことになる。

 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば、その人は当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 欧米人は哲学と意思により人間の行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は ‘口実・言い訳・言い逃れ’ である。本音は、’私意・我儘・身勝手 である。だから、現実の中に行為がうずもれてしまい低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。     

 

>だからこそ、毒にも薬にもならない適当なイエスマンより、ちゃんと考えて意見を率直に言ってくれる人をとなりに置きたくなるはずだ。 

 

そうですね。知性は宝ですね。       

 

>そのために意見を言いやすい環境を整えるだろう。>(なかには「俺が決めるからお前ら黙ってろ!」というパワハラワンマン社長的な人もいるだろうが、その人はそもそも話し合いを求めていないので棚上げしておく) >二つ目は、話し合いをコンペのように捉えることだ。 >ドイツで経験した議論は、話し合いというより、自分の意見をみんなにプレゼンして、まわりがそれらを比較検討するコンペみたいだった。

 

それは、選挙戦中の立候補者のようなものですね。   

 

>「自分はこう思うからこれがいい」に始まり、「あなたの意見はここがダメ」「いいや、そっちだってデータが足りない」「でも実践ではこうなんだ」「再現性はあるのか」と、どっちのほうが説得力があるかの勝負をしている感じ。 >決定権をもつ人に「なるほど」と思わせれば、勝ちだ。  

 

そうですね。理屈が通るのですね。       

 

>このやり方が優れている、というわけではないが、少なくとも「いろんな意見を出す心理的安全性の確保」という点では、相性がいいと思う。  

 

それは、民主主義の原点ですね。多数決原理 (majority rule) が生きてきますね。  

チャーチルの名言: 民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。

 

>全会一致を目指すのであれば、心理的安全性は必要ない。 >でもいろんな意見を聞きたい、異なる意見も受け入れたい、それができる環境の方が健全だ、と思うのであれば、「全会一致」から「一番いい意見の採用」を目指していくべきだと思う。>そのために、「決定権を明確にした」「コンペ形式」というのは、ひとつの例になるんじゃないだろうか。  

 

そうですね。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.     

 

 

 

 

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閲覧数211 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/10/08 02:40
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