2022年07月27日(水) 

 

>2022年07月23日   >日本の教育を“教育費”から考える。日本の教育に可能性はあるのか?  >社会が大きく変わっていく中、将来を担う子どもたちの活力(≒能力)上昇は欠かせません。  

 

そうですね。子供たちには考える能力が必要ですね。   

 

>今回は、子どもたちの活力(≒能力)に大きな影響を与える『学校教育』について“教育費”という視点から考えてみたいと思います。 >日本という国は、子どもたちの教育をどれだけ重視しているのでしょうか?  >日本における、令和4年度の文教及び科学振興費は、5兆3,901億円。(このうち、文教関係費は4兆114億円、科学技術振興費は1兆3,788億円) >日本では、毎年5兆円程度が『教育』に充てられています。 >この金額が果たして多いのか?少ないのか? >『教育に対する投資』を国別で比べているのがこちらのグラフです。  >2018年の初等教育から高等教育の公的支出が国内総生産(GDP)に占める割合は、日本が4.0%と、比較可能な38か国中31位。

 

我が国の教育は詰め込み教育ですから金がかからないのでしょうね。   

 

>さらに、先端教育である大学・高等専門学校において、世界大学ランキングで上位の大半を占める米国と比べると、米国が約2.6%なのに対して日本はわずか1.4%。  

 

そうでしょうね。日本は名にし負う教育貧乏国ですからね。   

 

>日本という国は、世界と比べると『教育』にお金をかけていない(≒力を入れていない)のです。   

 

詰め込み教育にはあまり金がかかりませんね。    

 

>では、これまで日本は『教育』に対して何を行ってきたのでしょうか?(行おうとしているのでしょうか?) >以下は、これまでに日本が行ってきた主な『教育改革』です。   

>・1872年(明治5年) >義務教育制度の導入。 >「学制」において、8年間の教育年限(下等小学校、上等小学校4年ずつ)を設ける。 >→義務教育制度が導入された背景は、「富国強兵」が関わっていると言われています。 >国を強くするために国民全員に教育を施す必要があったのです。  

 

軍隊式の皇民化教育が行われましたね。   

 

>・1947年(昭和22年)  >「学校基本法」「学校教育法」により、小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年の六・三・三・四制になる。 >→これらの変更はGHQ主導で行われました。   

>GHQの狙いは「全ての子どもたちの教育の機会均等」と言われています。 >(西洋観念を日本国民に植え付ける狙いも大きかったと思われます。)  

 

日本語による教育では西洋観念を植え付けるのは難しいですね。    

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。我が国を二刀流の国にすると良い。    

 

>・1970年(昭和45年) >中央教育審議会による「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」の答申で、学校教育全般にわたる施策を提言。 >→この背景には、ベビーブーム世代の到来と急激な社会変化があります。  >教育の量的拡大と質的改善を行い、それらの変化に対応しようとしました。

 

姑息的な改善策でしょうね。    

 

>・2002年度(平成14年) >ゆとり教育:年間授業時数の縮減・完全学校週5日  >→ゆとり教育ができた原因として挙げられるのが、これまでの詰め込み型教育により、学習内容についていけない生徒が多くなってきたためと言われています。  

 

没個性的な詰め込み教育をして学校で序列を争わせていては、子供は貧乏暇なしになりますね。個性的な人間は自分自身で考えることのできる人ですからね。学校で個性的なことを考えさせるならゆとりのある学習ができますね。      

 

>これらの教育改革に共通・一貫しているのは、「全ての国民」に最低限の教育≒画一的な教育を提供するということ。>ある意味セーフティーネットとも言えますが、突き抜けた能力上昇をさせない、悪しき平等主義ともいえるかもしれません。    

 

最低限の没個性の教育ですね。   

 

>では、学校教育がそのような状況の中、どうやって子どもたちの活力=能力を育んでいけば良いのでしょうか?     

 

自発的な個性的な学習が必要ですね。没個性的な序列競争を避けること。小人数での授業を受けることですね。       

 

>そもそも『教育』とは一体何なのでしょうか?  

 

心身ともに健康な子供を育てることでしょう。    

 

>もともと『教育』は、哺乳類の子ども同士の遊びから江戸時代の寺子屋まで、一貫して現実課題=日常生活の中にありました。   

 

昔の教育は読み書き算盤でしたね。  

 

>いわば、国が主導して画一的な教育を行うという現代の教育制度こそが、本来の『教育』から外れたものだったのかもしれません。   

 

暗記力を使って子供に序列争いに熱中させることが我が民族の問題ですね。序列社会の宿命ですかね。   

 

>近年、企業が社内に設置する『企業内学校(学校教育法第1条に規定される学校ではない)』や、企業が設立する『企業立学校』が増えてきています。 >また、社会に出た若者が「働き始めたらもっといろいろなことが学びたくなった」と言って、そこから大学や専門学校に通い始めるケースも増えてきています。  

 

そうですね。我々の知的要求は一生涯続きますね。    

現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、ご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

体系的な体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  思考を停止して人は、つかみどころのない人間になる。日本人には自己の考え (非現実) を脳裏に保持できないので、自己の考えが想定外になっている。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。     

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で指導の下に論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も尋ねられた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

 

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

 

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの文にならない歌詞には意味がない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)    

 

>国によって定められた『学校』に行き、決められた勉強をする。>それでは、画一的な人間にしかならない。   

 

そうですね。国定 (くにざだ) 人間になるだけですね。       

 

>今後の『教育』の大きなカギは 『社会に出て現実の圧力に触れること』ではないでしょうか。   

 

現実を直視して自分自身の考えを持つことが大切ですね。さすればわが国は価値ある民主国家になれるでしょう。   

 

 

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閲覧数381 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/07/27 17:02
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