>レコードチャイナ >Follow us on >日本の宗教と政治の不思議な関係=無知ほど怖いものはない、議論深化を―赤阪清隆元国連事務次長 >2022/09/24 >目下日本のメディアは、宗教、特に旧統一教会(世界平和統一家庭連合)を含むいわゆる新興宗教と政治の関係を、大々的に論じている。
新興宗教はわが国のエネルギーになるのでしょうかね。
>きっかけは、安倍晋三元首相の銃撃犯人が、彼の家族を破滅に陥らせた主因ととらえた旧統一教会を安倍氏が支援していたという理由で犯罪に至った経緯にある。 >この問題に関する世論の関心と批判の高まりを受けて、自民党は、9月8日、党所属国会議員と旧統一教会や関連団体との関係について点検結果を公表した。 >それによると、衆参両院議長を除く379名の議員中、179人の接点があり、議員本人が関連団体の会合に出席してあいさつをするなど「一定の関係」があったとして氏名が公表された議員は、121人にものぼった。
政治家は新興宗教と関りが深いですね。これも政治家の藁をもすがる気持ちからですかね。
>周知のとおり、日本における宗教と政治の関係は、第二次大戦後、大きく変化した。 >日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は、日本の軍国主義が、天皇に対する神としての崇拝と国家神道と深くかかわっていたとの認識から、政治と宗教との分離を図る様々な措置をとった。 >そして、新たに作成された日本国憲法では、信教の自由と国の宗教活動の禁止が明示的に規定された(憲法第20条)。
政教分離ということですね。上からは禁止、下からは自由ということですかね。
>これによって、国民は信教の自由を保障され、国は特定の宗教団体を支援する活動をしてはならないことになったが、他方、宗教団体の側が政治的な活動や選挙にかかわることまで禁止されたわけではない。 >それゆえに、戦後成長を遂げた新興宗教の多くは、自前の政治団体を作り、選挙に候補者を立てるか、あるいは既存政党の候補者を支援する形で、政治との関与を深めてきた。 >政治参加を基本的に否定する新興宗教もあるが、多くの教団は、右派や保守政治家への接近を図ってきているのが見て取れる。
政治家も宗教家も権力志向は強いですからね。
>また、旧統一教会のように、大きな社会問題を起こして、政治問題化するケースも数多い。 >日本の宗教を考える場合、キリスト教、イスラム教などの宗教と大いに異なるところは、信仰がさほど重視されない点だと言われる。
日本人には意思がない。受動があって能動がない。被害者意識があって加害者意識がない。恨みがあって罪の意識がない。だから、罪の意識に苛まれて魂の救済を求める人もいない。病める魂の救済を目的とする宗教 (キリスト教) も勢力を持たない。 日本人の宗教には形式があって内容が無い。
>NHK放送文化研究所が2018年に行った調査では、「信仰している宗教はない」と答えた人は62%にものぼっている。
宗教に魂の救済を求める人が少ないからでしょうね。
>それにもかかわらず、多くの新興宗教が存在しているし、また、元旦には初もうで大勢の人々が神社参拝に出かけ、年中行事、冠婚葬祭や日々の慣行の中に多くの宗教とのかかわりを観察することができる。
そうですね。わが国の宗教には形式 (儀式) があって内容 (教義) が無い。日本人の誰もがこれを不思議に思わない。
>なぜ政治と宗教は癒着するのかについては、宗教問題に詳しい識者は、政治家にとっては、数としてはそれほどでなくても、宗教団体からの票の支援は、非常に固く確実であるため、安心感があると指摘する。 >集票マシーンとして強力な力を誇る宗教団体もある。
日本人は思考を停止している。だから、無哲学・能天気になっている。政治哲学がなくて、ノンポリ・政治音痴になっている。日本人にはなれ合いだけの絆がある。
>また、宗教団体からの票数は落ちていても、小選挙区制と低投票率によって、政治的影響力がかえって高まった可能性もある。
技術面だけの発達ですね。わが国には何でも揃っているが、ただ夢と希望だけがない。
>他方、宗教団体側にとっては、一種の広告塔として政治家を利用している場合や、「保険」としてシンパを増やしたい目論見もあろう。
日本人の励みには手段があって目的がない。これは無哲学・能天気の国民性の為である。
>さらに、伝道や教化活動の正当化に加えて、霊感商法や社会問題を重ねていく過程において、世間からの批判から組織を守ってもらうという動機も考えられる。 >日本人が一定程度は宗教とのかかわりを持っているにもかかわらず、それに無自覚であるという実態と意識の乖離は、日本社会の宗教に対する脆弱性の一員となっていると指摘する識者も多い。
我が国には病める魂を持つ人がほとんどいないですからね。その救済策も考えられてはいない。わが国には技術面の発展のみがある。
>島薗進日本宗教学会元会長(東京大名誉教授)は、9月15日付の日経新聞のインタビュー記事で、宗教について無関心な政治家が、教義や世界観にあまり頓着せずに、選挙に協力してもらえるからという実利面から関係を結ぶといった姿勢が、結果的に、社会的にさほどの支持も得られていない宗教団体が大きな影響力を持ち、国民生活にも累を及ぼす一因になったと語っている。
日本人は思考を停止している。だから、無哲学・能天気である。哲学と宗教にその内容が無い。哲学と宗教は非現実 (考え) の内容である。選挙は実利 (現実) である。非現実よりも現実を選ぶのが日本人の常である。分かりやすい。幼稚である。夢と希望だけがない。
>同氏は、戦後の日本では、一般教養の中で宗教が占めている地位は非常に低く、あまりにも宗教を軽視してきたことを反省すべき時に来ている、と述べている。
そうですね。大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。 私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。
政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。 孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。 、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)
日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。 日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
>戦後日本の新興宗教の多くは、目指す理想社会の実現のために広く社会に働きかけ、さまざまな社会活動や政治活動に参加しており、宗教団体がこのように政治とかかわりを持つこと自体については、否定する意見は少ない。 >むしろ、宗教団体が何らかの政治観を持ち、より良き社会の実現に向けて活動し、政党がそのような考えを政策に反映することについては、これを肯定的にみる向きが一般的である。 >しかし、そのような宗教団体と政治とのかかわり方にあって、戦後韓国で文鮮明が創始したキリスト教系新宗教である旧統一教会は、他の宗教団体とは異なる特異な性格を有している。
もしかしたら文鮮明は韓国人でありながら、日本教徒キリスト派の人であったのかもしれませんね。わが国の政治家は政治家でありながら政治哲学のない人達であったかもしれませんね。
>特に、その霊感商法や強要的献金については、多くの訴訟が提起され、その責任を認めた民事訴訟判決が数多くある。
哲学と宗教に弱い日本人は、なれ合いを基軸として人間関係を広げたのでしょうね。
>旧統一教会の特性については、多くの新聞、雑誌記事が取り上げているが、外来のキリスト教系新宗教であること、反共・勝共という政治性、霊感商法・強要的献金などが主に論じられている。
政治が宗教に近づくことは禁じられていますが、宗教が政治に近づくことは禁止されていませんからね。
>旧統一教会と自民党議員との関係が次々に明るみになるにつれ、メディアや野党の関心と批判が高まったことから、政府および自民党も対応を迫られるに至った。 >岸田首相は、8月31日の記者会見で、信教の自由や政教分離は憲法上の重要な原則として最大限尊重されなければならないが、宗教団体であっても関係法令を遵守しなければならないのは当然である一方、政治家側には、社会的に問題がある団体との付き合いには厳格な慎重さが求められるとして、同政権は旧統一教会との関係を断つと明言した。 >また、自民党総裁として、茂木幹事長に対し、自民党所属議員を対象に旧統一教会との関係を点検し結果を公表すること、所属国会議員は同団体との関係を断つことを党の基本方針として徹底すること、および、自民党におけるコンプライアンスチェック体制を強化することを指示したとし、霊感商法等の被害者の救済には全力で取り組むと表明した。
被害者の救済はぜひやるべきですね。
>なお、安倍元首相と旧統一教会との関係については、9月8日の衆院閉会中審査で、実態把握には限界があるとして調査しない方針を明らかにした。 >今回の旧統一教会をめぐる様々な議論は、日ごろの宗教に対する考えや特定宗教団体とのかかわり方を見直す良い機会を提供していると言える。
政治哲学のない日本人に馴れ合いを断ち切ることは難しいでしょうね。
>ものごとに白黒をはっきりとつける西欧合理主義的な考え方とは違って、日本人のものの考え方には、あいまいで灰色の部分を残すことが多く、また、そこに日本ならではの価値やメリットを見出す向きもあろう。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
>いずれにせよ、ことわざにも、無知ほど怖いものはないという。 >宗教と政治について、さらに議論が深まることを期待したい。
そうですね。宗教・哲学に弱く、政治音痴であることが我が国民の課題ですね。これらの事は、英米流の高等教育に頼る必要がありますね。
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