>東洋経済オンライン >米国のエリートが「コーヒーよりお茶」を選ぶ根拠 マナーが身につく教養として注目され始めた > 藤枝 理子 2022/10/16 12:40 (略) >ビジネスと教養 >ここでいう教養は「カルチャー(Culture)」のこと。 >日本ではカルチャー=文化と捉えることが多いのですが、語源は「耕す」に由来し、「教養」や「洗練」を意味しています。 >つまり、投資の知識はもちろんのこと、洗練された身だしなみや作法といった「ジェントルマン文化としての教養」を高めた人がビジネスチャンスをつかんでいったのです。 >これは、出資する貴族の立場に立ってみると当然のことでした。 >階級が違うとはいえ、相手に不快感や不安を与える「教養が足りない人(Uncultured Person)」に大金を預けるわけにはいきません。 >積極的に教養や知識を身につけ、品格を高めようとする人間性を評価したのです。 >日本でも、利休はじめ安土桃山時代の商人たちは、教養や品位を身につけるために茶の湯を学んだといいます。 >同じように、英国のビジネスパーソンたちも、階級の高い貴族を相手に交渉のテーブルにつけるよう、コーヒーハウスで貴族趣味のお茶を嗜み、知識やマナーを身につけ、品性を磨いていったのです。 >そこから、ビジネスをするうえで、ルールを遵守し、良識ある行動秩序というものが求められるようになっていきました。 >エチケットは、まさにビジネスパーソンとして信頼を得るための「チケット」になっていったわけです。 >コーヒーハウスはのちに、世界経済の中核を担うロンドン証券取引所へと発展しました。 >今もなお、日本のエリートと呼ばれるビジネスパーソンたちが、教養として茶道を嗜むように、イギリスのエグゼクティブ層は、アフタヌーンティーを嗜み、カルチャーを身につけます。 >茶道とアフタヌーンティー。 >どちらにも共通しているのは、茶を学ぶことで、自国の文化、歴史、芸術に触れると同時に、己の品性を磨き高め、奥深い教養を備える、いわば人格形成につながるという点です。
そうですね。しかし、日本人にも抜けた点がありますね。奥深い教養を備えているはずの日本人にも共通している欠けた点があるようです。 日本人には意思がない。だから、受動はあっても能動がない。 被害者意識はあっても、加害者意識はない。 恨みはあっても罪の意識に苛まれることはない。 かたき討ちは流行るが、罪滅ぼしの運動は流行らない。 我が国のキリスト教徒はあくまでも日本教徒である。だから、彼らは日本教徒のキリスト派になる。彼らはキリスト教的儀式をするが、それが贖罪の目的であるとは理解していない。わが国には病める魂の持ち主が見当たらない。だから、彼等の勢力も伸び悩んでいる。しかし、カルトであれば逆に良く伸びる。 日本人は思考を停止している。だから、無哲学で能天気の状態になっている。頭の中に非現実 (考え) の内容がない。ただ目の前の内容 (現実) だけを信じている。形式・作法 (現実) があって内容・教え (非現実) がない。現実がないのであるからその分現実に強いこだわりを見せる。だから改革の難しい守旧派になる。教養 (哲学) というものがない。この状態で割り切ることができれば、日本人の生活は円滑に進む。生まれた時は宮参り、結婚式はキリスト教、葬儀の時は仏式で済ませばよい。これが日本人の脳足りん生活の実態である。 英米流の高等教育の目的は個人の考え (非現実) の内容を生み出すためにある。その考えの内容は文になり、論文として世界に公表されている。日本語は ‘写生画の言葉’ ともいわれ、現実の描写にはこだわりを見せるが非現実の内容を示さない。だから、わが国の高等教育の成果は伸びが悪い。わが国の高等教育は使用言語を英語に改める必要がある。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
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