2023年04月18日(火) 

 

>古市憲寿氏 岸田首相襲撃事件で私見「デモしても選挙に行っても…政治側も変わらなきゃいけない部分も」   >スポーツニッポン新聞社 の意見 • 昨日 9:53  

> 社会学者の古市憲寿氏(38)が17日、フジテレビの情報番組「めざまし8(エイト)」(月~金曜前8・00)に出演。   

>岸田文雄首相が衆院和歌山1区補欠選挙応援のため訪れた演説会場で、筒状のものが投げ込まれ爆発した事件について言及した。   

> 和歌山県警は威力業務妨害容疑で兵庫県川西市の職業不詳の男(24)を現行犯逮捕。   

>男が持ち込んだ筒状の爆発物は2本で、うち1本が破裂し、残り1本は現場に残っていた。   

>県警などが構造や殺傷能力の有無を調べる。   

>首相にけがはなく無事だったものの昨年7月に安倍晋三元首相が銃撃され死亡した事件から約9カ月。   

>再び選挙期間中に民主主義の根幹を揺るがす異例の事件となった。   

> 古市氏は「人生がめちゃくちゃうまくいっている人はこういう事件起こさないわけですよね。   

>ですから何らかの不満は当然あったはずで、かつ政治に対する関心もなかったわけではないっていう、だから本当はそこで何かもっと社会の方に回路があったらよかったなっていうふうに思うんですね」と指摘。   

> 「こういうテロで社会を変えようとか、テロで注目を集めようとするわけじゃなくて、政治家になるとか政党に入るとか、本当はもっと平和的な手段で社会をなんとか変えるとか、もしくは社会と接点を持つという方法があるはずなんで、そこに対する絶望感がもしかしたら広がっているのかも知れない」と推察した。   

 

そうですね。日本人には絶望感がありますね。    

日本人には世界観が無い。未来の世界の内容が無い。来るべき世界の内容を語る者がいない。これが無哲学・能天気の民族の定めですね。        

 

> そして、「今回の件だけじゃなくて結局、政治って変わらないじゃないかっていう、デモしても変わらないし選挙に行っても変わらないし、だったらテロだって短絡な人がこれから増えていく可能性があると思うんですね。   

 

そうですね。日本人には短絡しかないですね。ヤケッパチですね。       

 

>だからこそ政治側も変わらなきゃいけない部分もあるのかなと思います」と自身の見解を述べた。   

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

 

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国民では一生涯続く。

 

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

 

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' の判決がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)       

 

 

 


閲覧数131 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/04/18 09:17
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