2023年07月04日(火) 

 

>文春オンライン   >私たちが「受験勉強」を強いられるにようになった理由は…日本に「偏差値」が生まれたその歴史背景   >村上 靖彦 によるストーリー • 昨日 11:10  

> 日本人はいつから偏差値を気にするようになったのか?    

>その歴史背景を、大阪大学人間科学研究科教授の村上靖彦氏の新刊『 客観性の落とし穴 』より一部抜粋してお届けする。   

>(全2回の1回目/ 後編 を読む)   

>◆◆◆   

>偏差値ができた背景   

> 日本の若者の多くは受験勉強を強いられ、偏差値を気にしているだろう。   

>日本では長年にわたり偏差値によって学校は一直線にランク付けされ、受験生たちは模擬試験や本試験の結果に一喜一憂している。   

 

序列人間の悲哀ですね。    

 

>誰もが自由に学ぶ権利をもつはずなのに、学校にランク付けがあり、入学試験で排除することがあるということは奇妙でもある。

> また、さまざまな研究分野をもつ大学が、なぜ「私立文系」「国立理系」といった雑なくくりのなかで序列がつけられるのだろうか。   

 

序列作りには個性を無視することが必要条件ですね。そうでなければ人間序列は作れない。      

 

>私たちはそれぞれ興味を持つことが異なり、そもそも興味や得意は、中学や高校で行われる教科からはみ出ることが多いだろう。   

 

個性を伸ばすための大学で序列づくりに狂奔する日本人はまさに思考停止の人間ですね。なぜ日本人はこれほどに狂うのか。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

 

> さらに大学に行ってからの多様な学びと研究は、高校までの画一的な教科とはまったく質が異なる。   

>学生自身一人ひとりの願いは異なり、大学の学部の学びの多様さがあるなかで、偏差値という単純な数字を頼りにして序列化することで何が判断されてきたのだろうか。   

>しかし、これほど当たり前のものとして受け止められているのは、数字の呪縛がそれだけ強いということでもある。

> 1957年に東京都港区の中学校教員だった桑田昭三が、学力偏差値を考案した。   

>当初は教員の勘に頼っていた進路指導に、信頼できる指標を導入することが目的だったのだが、次第に偏差値は独り歩きし、偏差値そのものが勉強の目的となっていく。   

>例えば英語の学習は英語が使えるようになることではなく、英語のテストの偏差値が上がることが目的となっている。   

>偏差値そのものは、テストの点数が正規分布すると仮定される母集団のなかで、どの位置にいるのかを示す統計的な指標にすぎない。   

> 本章では「偏差値で人の能力が測れるのか?」と批判したいだけではなく、そもそも「人間を数値化して比較することで、私たちは一体何をしていることになるのだろうか?」と問いを立てたい。   

>それは数値化・序列化がもたらすものを考えていくためである。   

 

人間序列を求めるためには数値化が便利ですね。   

 

>すべて数値で評価される現代社会   

 

> 数値至上主義は偏差値に限った話ではない。   

>社会に出たらあらゆる活動が数値で測られる。   

>例えば大学教員である私は、毎年何本論文や著作を出版したのか、いくら助成金 を獲得したのかを大学に報告する。   

>業績の報告のあと、年度末に次年度の目標を立てて提出している。   

>つまり目標と成果が数値で計測され評価されるのだ。   

>民間企業に勤めている人たちは、もちろん私どころではない。   

> さらに、個人の問題だけではなく、学部としても次年度の数値目標を立て、年度末に成状況を大学本部に報告する。   

>大学全体でも同じデータ集めは行われており、各学部に作成させた6カ年ごとの中期計画のデータを集計して文部科学省へと報告して国からの評価を受けている。   

> つまり個人から組織、国家にいたるまで、子どもから大人にいたるまですべて数値で評価されている。   

>数値に基づいて行動が計画・評価され、価値が決められるのだ。   

>「殺すべき者がいれば殺すのも致し方がありません」“相模原19人殺害の植松聖死刑囚”が陥った「優生思想」が決して他人事ではない理由 へ続く

>(村上 靖彦/Webオリジナル(外部転載))   

 

 

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閲覧数91 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/07/04 03:20
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