2023年09月06日(水) 

 

 

>「時代の証人、語る責任」 94歳牧師、今も心に残る戦争の傷   >毎日新聞 によるストーリー •   >12 時間   

> 戦争は多くの人の人生を暴力的に変えてしまう。   

>栃木県日光市の牧師、関根辰雄さん(94)は第二次世界大戦中の1943年、14歳で海軍飛行予科練習生、通称「予科練」に入隊、特攻の訓練を受けている最中に終戦を迎えた。   

>軍国少年だった関根さんが戦後、牧師として信仰に身をささげるようになった背景には、戦争で自身や家族が大きく傷ついた経験がある。   

>「時代の証人として語る責任がある」と考える関根さんの戦争体験を、2回に分けて伝える。【渡辺佳奈子】   

 

日本人には意思がない。意思の無い人間には加害者意識がない。あるのは被害者意識ばかりである。  

加害者意識は高じて罪の意識となる。病める魂の救済を求める人も出て来る。だから贖罪の為の宗教 (キリスト教) は存在する。    

我が国の宗教 (仏教・神道) は罪の償いには関係しない。それは信者が罪を知らない人達だからである。    

しかし、罪を知らない大人の悪行にはストップがかからない。過ちは何度でも繰り返す。歯止めをかけるためには加害の歴史を学ぶ教育が必要である。       

過ちに対する謝罪をすることが相手の信用を得るカギである。この点がドイツ人と日本人の違いである。  

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)      

 

>生還、姉の死…信仰の道に   

> 日光市猪倉の教会「大沢バイブルチャーチ」。   

>のどかな田園風景の中にたたずむ素朴な赤い屋根の小さな教会で、関根さんは、ウクライナへのロシアの侵攻で、両国の戦闘が泥沼化していることに心を痛めていた。   

>「私が思うのは、戦争っていうのはやめる努力をしなければ、ということ。   

>どちらがよくても、悪くても。   

>戦争というのは殺し合いなんですから。  

 

そうですね。戦争は政治家が起こすのです。自己の政治目的を政治的に解決することなく、国民の命を犠牲にして武力で成し遂げようとする試みです。   

 

>(ウクライナへの)武器の供与で解決させるのは、違うのではないかと思ってね」   

 

しかし一方的に停戦することはできないですね。相手を殺さなければ自分が殺される立場に立っているのですから。   

 

> 関根さんは埼玉県の旧大河村(現小川町)で、9人家族の長男として生まれた。   

>旧制中学へ進学したかったが、貧しかったため「予科練に行けば、お金がかからず旧制中学以上の勉強ができる」と14歳の時に予科練に志願した。   

>予科練は、第二次大戦で主戦力となった航空兵を育てるためにつくられた制度。   

>「七つボタン」の制服で知られ、軍国主義下の少年たちにとって憧れの存在だった。   

>試験は難関で倍率も高く、「村で合格したのは私1人。   

>隣の町でも1人」。   

>周囲からは「名誉なこと」と称賛されたが、母のとめさんだけは泣いていた。   

>「母親の気持ちは今になって分かります」   

> 合格後、三重海軍航空隊に配属された。   

>入隊後は朝起きてから夜寝るまで、武道や体技の厳しい訓練、航空術や砲術などの専門的な勉強に明け暮れた。   

 

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)   

一体わが国の指導者は誰だったのですかね。  

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)   

 

>「軍国少年」だった関根さんは入隊を誇りに思い、訓練に励んだ。   

>国のために死ぬのは当然だと思っていた。   

 

見事散りましょ国のため。  

 

> しかし、訓練が終了し航空兵となった頃は、戦局の悪化による物資不足で乗り込む飛行機もないありさまだった。   

>神奈川・横須賀の基地に移り、小さなエンジンの簡素なボートに爆弾を仕掛け、米軍艦にぶつける特攻の訓練を受けた。   

> 「成功すれば敵艦を撃沈させることができる。   

>でも、敵だって爆弾を抱いた船が来るのをぼうっと見ているわけがなく、成功する確率はほとんどない。   

>あんなばかげたことを考えた軍の上層部の責任は重い」    

 

それは日本人の得意な犬死戦法ですね。   

 

> 出撃命令が出る前に終戦を迎えた。   

 

幸運でしたね。   

 

>横須賀で玉音放送を聞いた時、仲間と共に「悔しい、悔しい」と泣いた。   

 

好きで好きで大好きで 死ぬほど好きな戦争でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ。泣いて崩れた敗戦日。   

 

>しかし、生き延びることができたというほっとした気持ちもどこかにあり、「複雑な気持ちで泣いていた」という。   

 

そうですね。‘命は宝’ ですね。   

 

>数日して、ようやく「これで家に帰れる、おっかちゃんの顔が見られる」とうれしさがこみ上げてきた。  

 

日本人は一億総玉砕を免れましたね。米国サンよありがとう。      

 

> 帰郷して再び平和な暮らしが始まったが、平穏な日々は長くは続かなかった。   

>関根さんの心を大きく変えるきっかけとなったのは、終戦約1年半後に知らされた姉の死だった。   

 

 

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閲覧数115 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/09/06 03:42
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