2023年10月01日(日) 

 

> 「世界の記憶」への登録を目指す作家大田洋子の『屍の街』(しかばねのまち)。   

>1948年出版の中央公論版では、GHQのプレスコード(報道規制)への配慮から「無欲顔貌」という章が削られた。   

>その1年半後に「完本」と銘打って再刊された冬芽書房版も、しかし、自筆原稿そのままではない。   

>(ノンフィクション作家、女性史研究者=江刺昭子)   

> 『大田洋子集 第一巻』(三一書房、82年)の「解題」に主な異同が挙げられているが、かなりの数である。   

>中公版の削除部分の一部は回復したが、50年の冬芽版の刊行時においてなお、プレスコードへの配慮が働いていたことをうかがわせる。   

>冬芽版に大田が書いた「序」はそれを暗示する。   

> ラジオから「原子爆弾に関するものは、科学的な記事以外発表できないことを言っているアナウンサーの声が、かすかに聞こえた」と記しながら、誰が発表を禁じているのかは書かない。   

>「占領軍」や「検閲」といった言葉を巧みに避けているのは、作者自身も自主規制していたのではないか。   

> 52年4月のサンフランシスコ条約発効で日本占領が終わり、プレスコードも消えた。   

>プレスコードによる検閲のために集められた出版物は、米メリーランド大学の「プランゲ文庫」が所蔵する。   

>詩人の堀場清子はこの文庫を調査して、削除されたり、発禁になったりした作品を明らかにした。   

>そして、占領が終わってからも、作家たちが検閲された事実を書き残してないことを指摘し、嘆いている。   

>(『原爆 表現と検閲 日本人はどう対応したか』朝日新聞社、95年)

> そのようななかで『群像』(53年5月)に掲載された大田の小説「山上」が、検閲の体験を書いているのは稀有(けう)な例である。   

>呉から来た米国の情報機関の軍曹に尋問されたいきさつを詳細に記録している。   

> それによると、47年冬の半ば、地主の家の屋根裏に住んでいる「私」のところに「図抜けるほど背が高く恰幅のいい」外国兵士と「足の短いずんぐりとした」日本人通訳が訪ねてくる。   

> 通訳が最初に「あなたが原子爆弾の投下の日、広島におられて、それを小説に書いていらっしゃるというそのことで、いろいろお訊ねしたいことがあって伺いました」と切り出す。   

>外国人の方は米国の情報機関の軍曹であるらしかった。   

>「私」は二人を仏壇のある座敷に通す。   

>尋問のやりとりの一部を作品から抜き出す。   

>(表記は原文のまま)   

> 「あなたの書かれた小説の原稿というのは、あなた以外に、これまで、誰と誰とが読んでいますか」   

> 「私が読んだだけで、東京のC社に行っています。   

>C社の編集部のEさんが読んで手紙をくれましたから、Eさんはたしかに読んでいます」   

> 「Eさんはどんな思想と主義を持っていますか」   

> 「自由主義者です」   

> 「あなたのその原稿に、原子爆弾の秘密が書かれていますか」   

> 「いいえ。   

>私は原子爆弾の秘密は知りません。   

>私の書いたのは、広島という都会とそこにいた人間のうえに起こった現象だけです」   

> 「あなたに原子爆弾の思い出を忘れていただきたいと思います。   

 

それは口を閉ざせということなのでしょうね。   

 

>アメリカはもう二度と再び原子爆弾を使うことはないのですから、広島の出来ごとはわすれていただきたいと思います」   

> 「わすれることはできないと思います。   

>わすれたいと思っても、わすれない気がしています。   

>市民としては忘れたいと思いますが、わすれるということと、書くこととは別です。   

>遠い昔の忘れていたことをも、作家は書きます」    

> 大田は逆にプレスコードの禁止事項に原爆が明示されていない理由や、原爆について何を書いてはいけないのかと質問するが、相手は「答える任務を持っていない」と回答を拒否する。   

>その後のシーンは原文を引用する。   

> このとき、私はふいに言った。   

> 「日本で発表できなければアメリカへプレゼントします」   

> 私の胸に突きさすような憤りがとつぜん走ったのだった。   

>はじめて兵士の眼のいろが動いた。   

>かすかな哀しみのような影がさし、そしてすぐに消え、返事はなかった。   

 

アメリカ人はお手上げですね。    

 

> 大田は自らが受けた尋問の一部始終を「山上」に記した。   

>「記憶の消去」まで要求されたことも書き込んだ。   

> 大田は自我が強く、わがままで、強すぎる作家意識が文壇で嫌われていた。   

>戦後の原爆被害者としての作品と、戦時中の戦争協力という二面性への批判もあった。   

 

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)   

 

>それらが作品評価にも影を落としてきたが、違う見方もできる。   

> 「わがまま」というのは、自己主張が強く、自由の制約や抑圧を嫌うということだ。   

 

そうですね。それは恣意 (私意・我儘・身勝手) のことですね。   

 

>その性格が強く発揮されたらからこそ、規制の中でも『屍の街』を出版することができたのではないか。   

 

そうですね。日本人は何物をも恐れることは無いからですね。       

 

>「強すぎる作家意識」は使命感の強さでもある。   

>それは誰よりも早く、大量に原爆文学を書くエネルギーをもたらした。    

> 二面性の批判については、大田の戦時中の作品や振る舞いがもっと丁寧に分析される必要があると思う。   

> 権力者に忖度(そんたく)して自主規制が広がり、言いたいことが言えない空気がまん延している今こそ、大田の抵抗精神に学びたい。   

 

それを反骨精神というのでしょうかね。   

 

>原爆文学の先駆者としての文業も、もっと評価されていい。   

> 世界各地で緊張が高まり、核兵器使用の恐れも現実味を増している。   

>核兵器がどれほど非道な大量虐殺兵器であるか。   

 

アジア人でアメリカの原爆投下を非難する者は日本人以外にいませんね。    

日本人には罪の意識がない。何のわだかまりも無く事実を書く。天真爛漫として核兵器の非道を述べる。これで説得できるのか。   

人間に意思がなければどうなるか。受動があって能動がない。だから、被害者意識があって加害者意識がない。罪の意識もない。これはアニマルも同じである。罪の意識のある人たちにとって、このような人たちは恐ろしい人達である。

‘罪悪感を国民に植え付けるプログラム’ (WGIP: War Guilt Information Program) とは、大東亜戦争後の昭和20(1945)年からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として行った、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画ですが見事に失敗しました。カエルの面に水でした。意思の無い人間に罪の存在を理解させるのは難しいからです。従って日本人の全ての宗教は罪と離れたところに存在します。罪の意識に苛まれる病める魂の持ち主を救済する必要がないからです。     

 

>大田を含めた原爆文学の「世界の記憶遺産」への登録を強く願わずにはいられない。   

 

そうですね。

我が民族は現実 (事実) の中にのみ生きている。非現実 (哲学・考え) はない。

人はパンのみにて生くるにあらず。(人の精神生活が大切なことを説く。)   

日本人は無哲学・能天気の民族である。従ってわが国の著述家にも人生哲学がない。    

 

>(終わり)   

 

 

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閲覧数81 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/10/01 14:29
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