> 東洋経済オンライン >【日本人が知るべき「大人が消えている」危機の実態 成熟に必要な人を「社会が求めていない」怖さ】 >内田樹の意見 >・10時間 >「今の日本社会を見て、いちばん足りないと思うのが“成熟”」と語るのが、思想家の内田樹氏だ。 >「未成熟であることは誤りでも罪でもないが、まっとうな大人の比率が高まれば、たいへんに住みやすい世の中になる。
そうですね。
>ところが、今の日本社会には大人がいなくなった」と内田氏は指摘する。
マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。 ‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
>大人の頭数を増やすためにはどうすればいいのか。 >新著『街場の成熟論』を上梓した内田氏に聞く(全2回の1回目)。 >子どもの知性的・感情的成熟を支援した人が「大人」 >――日本社会から「大人」が消えつつあるとはどういうことでしょうか。 >「大人」をどう定義するかは難しい問題です。
大人には現実 (事実) と非現実 (考え・哲学) の内容があるが、子供には現実の内容しかない。子供はあるものについては発言できるが、ないものについては発言できない。だから、大人と子供では話の内容が違うことになる。 英米の高等教育は子供を大人にするための教育です。万人共通の現実 (事実) しかない人間に自分自身の非現実 (考え・哲学) を持たせる練習です。自分自身の哲学を論文にして審査会に認められると学位が得られます。 英米は高等教育を重視しています。高等教育の成果は国力の強化に関係しているからです。だから英米は学歴社会です。
>僕の個人的な定義を申し上げれば、大人というのは「周りの子どもたちの知性的・感情的な成熟を支援できる人」のことです。 >つまり、結果的に「大人」を創り出してくれるのが「大人」だということです。 >なんだか、同語反復みたいですけれど。 >「大人」というのは、個人単体についての属性のことではなく、集団的な結果を検証して、「あの人は大人だった」と事後的・回顧的に確定される。
発言内容の浅はかなのが子供で、深いのが大人でしょうね。 日本人は思考を停止しているので子供のように見えるのです。
>子どもたちの知性的・感情的な成熟を支援した人が「大人」です。 >ご本人はいくら年を取っていても、社会的地位があっても、物知りでも、その人がいるせいで、周りの人たちの成熟が阻害されるなら、その人は「大人」としての役割を果たしていないので、僕の定義では「子ども」だということになります。 >でも、そういう人いますよね。 >「大人はかくあるべし」とか「大人の流儀」とか、そういうことを小うるさく言う人がいますけれど、そういう人にちゃんとした大人って、あまりいないように思います。
そうですね。他人の受け売りに熱心な人は浅薄ですね。自己が無い。
>だって、「なるほど、大人というのは、そういうふうにすればなれるのか」と周りの人が信じ込んだら、それは、その人を幼児的な段階に押しとどめることになるんですから。 >――子どもたちの成熟を支援した人が「大人」とは、明晰な定義ですね。 >複雑な現実を一刀両断に、シンプルな「物語」のうちに落とし込んで説明してしまう「賢い人」がいるとして、その人は「大人」でしょうか? >僕は違うと思います。 >その人個人を取り出すと、たしかに知識もあるし、業績も立派だし、弁も立つかもしれませんが、その人が複雑な現実を単純化したせいで、周りの人たちが思考停止に陥ってしまい、知的成熟の機会を奪われたとしたら、それは「大人」の業績にはカウントされません。 >僕が「今の日本社会には大人がいなくなった」と思っているのは、「その人がいるせいで、周りの人たちの知性が活性化し、感情が豊かになり、ものの考え方が深まるような人」がいなければならないということについての国民的合意がないという現実を指しています。
それは本当の事ですね。無哲学・能天気の民には個人のリーズン (理性・理由・適当) を求める力がありませんね。
>誰もそんな人を求めていない。
そうですね。無哲学・能天気が人並みの状態ですからね。
>複雑な現実を単純化しても、現実は複雑なまま >みんなが求めているのは、逆に「その人がいるせいで、周りの人たちが思考停止して、幼稚な感情に居着いて、定型的な言葉しか吐かなくなる」人たちです。 >そういう人のことを「大人」だと思っている。
そうですね。
>なにしろ、自分たちの知的負荷を軽減してくれるんですから、ありがたい存在ではあります。 >――昨今のインフルエンサーに多いタイプですね。 >でも、そういう人が複雑な現実を単純化してくれても、実際の現実はそれによって変わるわけじゃない。 >現実は相変わらず複雑なままですから、「複雑な現実」と頭の中でこしらえた「シンプルな物語」の間の乖離がただ広がるだけです。 >結果的に世の中はますますごちゃごちゃになってしまう。 >それよりは「複雑な現実は、これこれこのように複雑なのであって、簡単な話には還元できないのである」というふうに、にべもなく記述してくれる人のほうがずっと教育的です。
そうですね。
>その人の話を聴いているうちに、「ああ、世の中は難しいものだ」としみじみ思うようになって、「ぼやぼやしておれん」と腰が浮く……というような遂行的な効果をもたらす人が「大人」なんです。 >ギリシャ神話に「プロクルステスの寝台」という話があります。プロクルステスという盗賊がいて、通りかかる旅人をとらえて、自分の寝台に寝かせて、旅人がベッドのサイズより大きければ、足を切り落とし、サイズに足りなければ、足を引き伸ばした。 >複雑な現実を単純化する人たちは「プロクルステスの徒輩」です。 >神話によれば、プロクルステスはある日テセウスに出会って、自分の寝台に縛り付けられ、頭と足を切り落とされて絶命したそうです。 >無理にものごとを単純化すると、あとで罰が当たります。 >――パワークラシー(権力者支配)における上昇志向 [向上心] にかられた人々の振る舞いも鋭く批判しています。 >「パワークラシー」というのは僕の造語です。 >こんな政治用語はありません。 >今の日本はいったいどういう政体なのだろうと考えたときに、ふと思いついたのです。 >どのような政体であっても、権力者は自分が権力を行使しうる立場にあることの根拠を示します。 >「神から委ねられた」とか「偉大な王の子孫である」とか「卓越した武勲の持ち主である」とか「賢者である」とか「多数の人々から選ばれた」とか。 >「パワークラシー」というのは、権力者がどうして自分が権力者であるのかについて説明責任をまぬかれている政体です。 >「いま、すでに権力者である」という当の事実が、その人が権力者であるための十分な根拠をなすような政体のことを僕は「パワークラシー」と名づけました。
現実肯定主義の政体ですね。
>以前、ある政治家が高校生に向かって、「政治に文句があるなら、自分が国会議員になって変えたらいい」と言い放ったことがありました。 >「権力者以外の人には権力のありようについて論評する権利はない」と言ったのです。 >今あるシステムのルールに従って、その中で高いスコアを上げて、キャリア形成を果たした者だけにシステム批判の資格がある。
立身出世の世の中ですね。
>だから、ルールを変えたいならルールに従え。 >競争社会を批判したければ、競争に勝て。 >奴隷身分からはい上がって主人になりたければ、まず奴隷制度を認めろ、と。 >これでは永遠の現状肯定に行き着くほかありません。
日本人は現実肯定主義ですね。それは現実 (事実) があって非現実 (考え・哲学) が無いからです。考え・哲学に従って改革する余地がない。だから保守的なのです。お変わりのないことが何よりの事なのです。
>残念ながら、もう日本だけではなく、世界中の国がそうなりつつあります。 >「公人」としての自覚の欠如した政治家 >――政治家として、それを言ったらおしまいだろうという発言も多く耳にします。 >お友だち利権や票田となる業界や宗教団体との癒着など、信頼に足る大人の政治家が少なくなったことについてはどう思われますか。 >これは「大人」の問題という以前の「公人」としての自覚の欠如だと思います。
政治家には政治哲学が必要ですね。政治哲学で選挙の勝負ができないとなると政治哲学以外の力で政治を動かすことになる。これは政治の邪道ですね。無哲学・能天気の民の選挙は邪道になるしかないですね。
>「公人」は、自分の支持者たちだけでなく、自分の反対者を含めて集団成員の全体を代表しなければならない。 >そんなの当たり前のことです。 >でも、日本社会では、ある時期から「公人」とは「公権力を私的目的のために使い、公共財を自分の懐に入れても罰されない人」のことを意味するようになりました。
公私混同ですね。日本人には意思が無い。だが意思の代わりに恣意 (私意・我儘・身勝手) を使う。それが良くない。政治を腐敗させます。
>これは大人とか子どもとかいう以前の問題です。 >「公共」という概念が瓦解しているんです。
無哲学・能天気の民には概念 (非現実) は理解しづらいですね。
>(第2回へ続く)
.
|