2024年10月11日(金) 

 

>TBS NEWS   >世界大学ランキング 東大は28位 1位は9年連続で英・オックスフォード 上位に東北大、阪大も            >TBS NEWS DIS Microsoftの意見・   >1日・   

>世界の大学の最新ランキングが発表され、東京大学は前の年の29位から順位を一つ上げ、28位になりました。    

>イギリスの教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」は毎年、「教育環境」や「研究の質」など5つの指標をもとに世界の大学のランキングを発表しています。   

>9日公表された最新のランキングによりますと、日本では東京大学が28位となり、前の年の29位から順位を一つ上げたほか、京都大学が前の年と同じ55位にランクインしました。   

>1位は9年連続となるイギリス・オックスフォード大学で、2位がアメリカ・マサチューセッツ工科大学、3位がアメリカ・ハーバード大学と、上位10校はイギリスとアメリカの大学が占めています。   

 

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供に哲学を獲得するための教育である。子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。かれらの文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。すると未来時制を使って自己の意思を表すこともできるようになる。加害者意識も経験することになる。それが高じて罪の意識も理解できるようになる。深い反省にも陥るので、その原因の究明が行われ、うやむやにならない。魂の救済を必要とする人も出て来るので、贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本語は現実の内容だけを話す言語である。日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。嘘ばかりでは学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗している。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっている。これらは高等教育のお陰である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンとの相性が良い。   

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりを気にしている。日本人全体が注意力不足で井の中の蛙になっている。国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。     

 

>アジアでの最上位は、12位の中国・清華大学でした。   

>今年のランキングは115の国と地域の2092の大学を対象に評価が行われ、日本はアメリカに次ぐ多さである119校が対象となりました。   

>また、過去4年間でトップ200校に入るイギリスやアメリカの大学が減少した一方、日本は新たに東北大学、大阪大学、そして、今月1日に東京医科歯科大学と統合して「東京科学大学」となった旧東京工業大学の3校がランクインしていて、「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」は「中国と並び、唯一上位に占める割合を増やした国」と評価しています。   

 

日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。 ‘以心伝心・阿吽の呼吸’といったところか。     

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

日本人は学校で受け売り・後追いの練習ばかりをしている。自己の見解 (非現実) を述べる訓練をしていない。すると、知性の欠けた人間の跋扈する奇妙な社会が出来上がる。     

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく:  世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、わが国の若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 


閲覧数19 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2024/10/11 14:08
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