2025年03月25日(火) 

 

>現代ビジネス   >あの司馬遼太郎が呆れた…日露戦争についての「軍部の記録」がまったくアテにならないワケ   >講談社文庫出版部の意見・   >14時間・   

>司馬遼太郎の見識   

>2020年代に入ってから、疫病に戦争と、さまざまな災厄が世界に降りかかっています。   

>少し目線を高くして、巨視的にものごとを見る必要性や、「歴史に学ぶ」必要性を感じる機会が増えたという人も多いのではないでしょうか。   

>「歴史探偵」として知られる半藤一利さんは、なぜ日本が無謀な戦争に突っ込んだのかについて生涯にわたって探究を続けた作家・編集者です。   

>半藤さんの『 人間であることをやめるな 』(講談社文庫)という本は、半藤さんのものの見方のエッセンス、そして、歴史のおもしろさ、有用性をおしえてくれます。   

>本書には、作家・司馬遼太郎の見識の鋭さを紹介する章があります。   

>司馬が『坂の上の雲』に記した名フレーズを、その歴史的背景をおぎないつつ解説するという趣向です。   

>たとえば、日露戦争においてロシア側から降伏の申し入れがおこなわれた直後の様子を、半藤さんは以下のように描いています。   

>『人間であることをやめるな』より引用します。   

>***   

>いま、伝えられているほど日露戦争は連戦連勝の、そんな圧倒的勝利の戦いがつづいたのではないことを、わたくしたちは歴史的事実として知っている。   

>いずれの戦場においても、それは“辛勝”とよぶのがいちばんふさわしい戦いの連続であったのである。   

>たしかに、日本軍は終始攻勢に出たために戦勝の栄誉をうけることができたが、その損害を比較すればかならずしも有利ならざる状態であったのである。   

>ただひとつ、日本海海戦をのぞいて。   

>数字をもって示すことにすれば……。   

>陸戦においては遼陽、沙河、奉天を三大会戦という。   

>その戦いの死傷者の総数の日露の比較である。   

>〈遼陽〉日本軍  二万三七一四名・ロシア軍 一万六五〇〇名   

>〈沙河〉日本軍  二万〇五七四名・ロシア軍 三万五五〇〇名   

>〈奉天〉日本軍  七万〇〇六一名・ロシア軍 六万三六四九名   

>いかがなものか。   

>とくに日本軍にとっては、この死傷者のなかに大隊長、中隊長、小隊長といったイキのいい指揮官が多くふくまれていることが痛手であった。   

>補充がままならないのである。   

>もちろん、『坂の上の雲』にはこの三大会戦が詳細に物語られている。   

>ただし、小説ゆえに司馬さんはこんな統計を加えて読者の興をそぐようなことはしていない。   

 

そうですね。司馬は日本人の気に入らない事を明らかにしませんでしたね。だから文化勲章受章の価値が在りますね。   

それに引き換えマッカーサ元帥は正直の事実を述べたので、日本人から得た絶大なる信頼を失いましたね。マ元帥は損をしたというのですかね。      

 

>しかし、そのことはとっくに承知していたことはいうまでもない。   

>なぜなら、そのことに関連して『坂の上の雲』最終巻の「あとがき」で、司馬さんは痛憤してふれているのである。   

>陸の戦いを書くために参考にした参謀本部編纂の『明治卅七八年日露戦史』全十巻が、いかにインチキなものであることか、それは「明治後日本で発行された最大の愚書であるかもしれない」とまでいい切っている。   

>連戦連勝の威勢のいい話ばかりで、参考にもならなかった、とも。   

>どうしてそんな出鱈目な官修史書がつくられたのか。   

>このことについても「あとがき」で司馬さんはハッキリ書いている。   

>「戦後の高級軍人に待っているものは爵位をうけたり昇進したり勲章をもらうことであったが、そういうことが一方でおこなわれているときに、もう一方で冷厳な歴史書が編まれるはずがない」   

>真実、その通りであったのである。   

>高級軍人の出世のために、後世のために大切な戦史の編纂者には上から禁制規定が押しつけられていた。   

>司馬さんは書いていないが、それらは思わず笑わざるをえないほど、アホらしい規定なのである。   

>麗々しく写すのも腹立たしくなるだけながら、あえて、その二つ三つを抜き出してお目にかけることにする(原文は片カナ)。   

>高等司令部幕僚の執務に関する真相は記述すべからず。    

>軍隊又は個人の怯惰・失策に類するものは之を明記すべからず。   

>然れども、為に戦闘に不利結果を来たしたるものは、情況やむを得ずが如く潤飾するか、又は相当の理由を附し、その真相を暴露すべからず。   

>我軍戦闘力の耗尽もしくは弾薬の欠乏の如きは決して明白ならしむべからず。   

 

歴史から物事を学ぶという姿勢は皆無だったようですね。   

 

>こんな馬鹿げた制約を膨大に課せられて、歴史を書けといわれたって……。   

>そう、もし書けるヤツがいるとすれば、それは希代の大ウソつきのみであろう。   

>ないしはデッチ上げの名人ばかり。   

 

軍人には、でっち上げに力を尽くす生き甲斐があったのですね。   

歴史から教訓を学ぼうとする人たちは一体何処にいたのですかね。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)  

 

>もう少し官修史書について弁じたいけれども、いいかげんこのくらいにしておく。    

>***   

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。

未来時制の構文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。    

自己の意思を表すと加害者意識も経験することになる。

それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になり入信する人もいる。   

深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。     

事故の原因究明がうやむやにはできない様な心構えになる。

 

魂の救済を必要とする人も出て来る。   

贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。   

こうした過程を経て浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。   

だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。   

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。写生画の言語であるとも言われている。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。  

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。   

 

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。   

難関出身者が序列社会で優位に立つことばかりを気にしている大型の子供たちである。

世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。     

「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO)   

 

日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしか考えていない。それで日本人は相手からの信用が得られない。  

日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。在るのは被害者意識だけである。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。  

 

ヒットラーは勝算を見込んで (理性判断) 戦争に突入した。

日本人は勝算を見込むことなく (盲目の判断) 戦争に突入した。

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。 

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。 

指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)  

マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。だが、日本人は彼が考えるような知恵遅れの民族ではない。日本語文法には時制 (tense) というものが無いのである。待てど暮らせど非現実 (考え・哲学) を搭載する構文は日本人の口からは出て来ない。つまり自己の考えの内容が出て来ない。これが英米人の子供と違う所である。    

 

 ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)     

なるほどこれでは日本の大人が子供じみて見えてもしかたがないですね。わが国の学歴社会は序列社会の言い換えにすぎない。   

「うん、頭はいい。しかし本当に信頼できるかね」 (フランク・ギブニー)

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく:  世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数38 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/03/25 23:52
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