>現代ビジネス >最悪の作戦と言われる「インパール作戦」が行われるに至った「能天気な計画」…発案者の「精神状態」はどうだったのか? >帚木蓬生によるストーリー・ >6時間・ (略) >第二次世界大戦でのインパール作戦 >もうひとつ、私が取り上げるのは第二次世界大戦でのインパール作戦です。 >2011年に刊行した『蛍の航跡 軍医たちの黙示録』の「抗命」では、インパール作戦に参加した烈兵団の兵団長を精神鑑定した軍医を主人公にしました。 >烈兵団長の佐藤中将は牟田口軍司令官の進軍命令を拒否して、兵団を退却させたため、解任されて軍法会議にかけられる手はずでした。 >その前に、精神異常をきたしていないかどうかの鑑定が必要だったのです。 >精神医学を専攻しているその軍医は、現在の烈兵団長の精神状態のほかに、退却を決断したときの精神状態も調べなければなりません。 >そのために、兵団長に随行してきた副官に話を聞き、兵団長が軍司令部に宛てた電報の写しも検討します。 >その戦闘自体が、事前に詳細な調査がなされぬまま、安易な発案で実行に移された事実を知るのです。 >インパール作戦の発案者は、第十五軍の軍司令官牟田口廉也中将でした。 >目的はビルマ国境を越えてインドに進攻し、インドを独立させてイギリスの勢力を弱体化させるというものでした。 >そのためインパールを三方面から包囲して、イギリスとインド軍をそこで殲滅するという壮大な構想です。 >問題となるのは当然ながら、兵器や弾薬、資材の輸送と食糧でした。 >これに対する軍司令部の計画を次に記します。 >ジンギス汗のモンゴル遠征軍の故智に学び、第十五軍は一万頭の牛や馬を連れ、多くの野菜、穀物、花の種子や苗木を持って行く。 >牛には資材を積み、いよいよ食糧が不足してきた場合には食糧にする。 >種子はインパール平原に蒔いて自給自足園をつくる。 >読んだだけでも、いかに能天気な計画かが分かります。 >まさしく机上の空論です。 >烈兵団の定数は1万5000名ですが、除隊がないので2万の兵員になっていました。 >2万人分の食糧を日々、補給しなければなりません。 >烈兵団では作戦前に700頭の牛を獲得しますが、それまで牛に触れたことのない兵士ばかりです。 >牛に鞍をつけ、それに荷物を積んで歩かせる訓練もしなければなりません。 >それがひと仕事です。 >さらに牛の大群を連れて、チンドウィン河を渡河するのです。 >渡った先には3000メートル級のアラカン山系が待っています。 >道は峻険で牛も難渋します。 >大砲は分解して、兵が担いで急坂をよじ登らねばなりません。 >もともと兵の携帯糧秣(りょうまつ)は20日分の米と若干の塩干魚、干し肉、食塩などで、重さは50キロに達します。 >急坂になると、分解した砲の部品もそれに加わり、70キロになるのです。 >乾季のうちは何とかなるものの、雨季にはいれば、もはや進軍は不可能です。 >短期決戦が至上命令でした。 >進むにつれて牛の食べる草は少なくなり、栄養不足と疲労で、牛は座り込んで動こうとしません。 >大きな眼に涙を溜めて、哀願するように兵を見つめるだけです。 >馬は、牛と違って一度倒れると再度立ち上がることができても、数十メートル進むと倒れて二度と立ち上がれません。 >こうして牛馬は次々と斃れていったのです。 >1944年3月8日に開始された作戦は、計画通りに進まず、制空権はイギリス空軍のハリケーンやスピット・ファイア戦闘機が握っているので、思うような進攻もできません。 >イギリス・インド軍の高射砲の着弾も、観測機のせいで極めて精密です。 >そのうち、後方に敵の空挺部隊9000名が降り立ち、背後から攻撃を始めます。 >こんな状況下で第三十一師団烈兵団長の佐藤幸徳中将は、多大の犠牲者を出しながらも、コヒマのイギリスとインド軍陣地を占領します。 >4月8日、牟田口軍司令官から「コヒマの攻略を祝す」との打電がはいります。 >佐藤中将の返電は、「我々が欲しいものは祝電ではなく糧秣、弾薬である」でした。 >4月17日、牟田口軍司令官は、「応援のため一個連隊をインパールの北カングラトンビに出せ」と打電してきます。 >「徒歩では六、七日を要するので輸送車輛を送れ」 >「コヒマで鹵獲(ろかく)した敵の両輛を使え。 >二、三十輛あったはず」 >「兵力の転用は不可能」 >佐藤師団長はきっぱり拒絶し、転用命令は消滅します。 >4月29日の天長節の日、牟田口軍司令官がこの日までにインパールを落とすと豪語していたのに対して、佐藤師団長は打電します。 >「約束通り、烈は三週間でコヒマを攻略せり。 >インパールは何日に落とす予定か」 >司令官の返事はありませんでした。 >また、佐藤中将と軍司令官の間には、戦闘開始から一日8トンの弾薬、25日以内に糧秣250トンを補給するという確約ができていたのです。 >「第十五軍は約束を果たさず、補給を行わない」 >そうした佐藤中将の悲痛な打電にも、牟田口司令官は返電をしませんでした。 >ダンマリを決め込んだのです。 >やがてイギリス・インド軍は勢いを盛り返し、シャーマン戦車も繰り出してきます。 >5月31日、佐藤中将は撤退の意志を固めて、「チンドウィン渡河以来、一発の弾、一粒の米も受けず、今、敵襲を受く。 >糧食を空輸されたい」と、軍司令部に繰り返し打電します。 >しかし返電はありません。 >撤退を打電したとき、やっと牟田口司令官からの返電がありました。 >「万一、撤退をすれば軍法会議に処せられる」 >「小生が裁かれる時は貴官も処せられる時なり」 >これが佐藤中将の最後から二番目の返電でした。 >そして6月2日、佐藤中将は烈兵団にウクルルへの転進を命じます。 >このとき牟田口司令官からの電報が届きます。 >「烈師団はウクルルに転進して所要の補給をすませた後、インパール攻撃を準備せよ」という電文に、佐藤中将は腹の底からの怒りを感じます。 >烈兵団は九割の兵力を失い、指揮する将校とて不足していたのです。 >「第十五軍参謀の戦術程度は士官候補生のそれ以下なり」と、佐藤中将は返電し、無線機を封印します。 >中将の前に整列した兵は、発熱のために天幕をかぶっている者、腕を吊っている者、足を引きずっている者、頭に包帯をしている者など、まさしく敗残兵さながらでした。 >担架の兵のひとりひとりに佐藤中将は声をかけます。 >「インパールは陥落した。 >今マレーに転進だ。 >もう少しの辛抱だ」 >もちろん嘘の激励でした。 >そして、中将を精神鑑定した山下軍医大尉の鑑定主文は次の通りだったのです。 >鑑定主文 >一、作戦中の精神状態は正常であった。 >時折精神障害を疑わしめるごとき感情の興奮による電文のやり取りがあったが、これは元来の性格的のもので軽躁性の一時的の反応であって、その原因は全く環境性のもので、一過性反応に過ぎない。 >従っていわゆる心神喪失はもちろん、心神耗弱状態にも相当しない正常範囲の環境性反応である。 >二、現在の精神状態は全く正常である。
そうでしょうね。佐藤中将の判断は正常ですね。
>しかし佐藤中将は軍法会議にはかけられず、罷免されただけでした。 >軍法会議で、作戦そのものの杜撰さを糾弾されるのを、牟田口司令官が恐れたのです。
議論のできない人達の会議は杜撰になりますね。
>同時期、弓兵団長も5月16日付で更迭、祭兵団長も6月10日付で解任されます。 >牟田口司令官としては、三兵団長全員を交代させることで、佐藤中将の抗命を目立たなくしたのです。 >転進撤退となったものの、これがまた死の行進に近いものになりました。 >烈兵団所属の軍医笹瀬見習士官によると、その苛酷さがよく理解できます。 >軍医ですから傷病兵を伴っての逃避行です。 >街道筋は敵の空軍機の標的になるので、密林や丈の高い草の中を南下します。 >途中も死人、死にゆく兵士たちが折り重なっています。 >雨季にはいって川底の死体は流され、アメーバ赤痢も蔓延します。 >コレラも流行する中で、同僚の軍医も死亡します。 >緑色の襟章を見て、動けない兵が「軍医殿、一緒に連れて行って下さい」「食べる物を下さい」と哀願します。 >草むらの中に日赤の看護師が16名、雨に濡れて眠るように死んでいたのは、赤痢か栄養失調でしょう。 >穴を掘って死体を埋める作業中に、本人も赤痢で倒れ、その穴に入れられる者もいました。 >ようやく辿り着いたチンドウィン河は、雨季のため、川幅は100メートルに達しています。 >太いワイヤーロープを両岸に張って、一隻の小船に15名ずつ乗せて往来します。 >岸にはあちこちに傷病兵が倒れ、傷口にはウジ虫が群がっています。 >立っている将兵も、骨と皮に痩せ細っていました。 >まさしく退路は、白骨街道と化していたのです。 >第十五軍の作戦会議 >こんな第十五軍も作戦前の4月20日頃、牟田口中将が烈、弓、祭の三兵団長を集めての会同を開いていたのです。 >各兵団長はそれぞれの幕僚を伴っていました。 >牟田口司令官が前述の作戦を示し、各兵団長に進攻作戦準備を指示しました。 >会同のあと、三兵団長は雑談する中で、各々の感想を述べあいます。 >佐藤中将は「あんな構想でインドのアッサム州まで行けると思っているのは笑止の沙汰」と不満たらたらです。 >弓兵団長の柳田元三中将も、「全然可能性のない作戦だ」と一笑に付し、他の幕僚の中にも「この作戦は無理です」と具申する佐官もいたようです。 >つまりこの会同は、作戦会議にもなっておらず、軍司令官の通達のみで終わっているのです。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。 私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
>前提とされる糧秣や弾薬、資材の補給は、全くもって討議されなかったのです。 >現在の会社の取締役会で言えば、会長が延々と持論を述べ、過去の業績の自慢話をするのと似ています。 >こんな会議で決定された作戦が、行き当たりばったりになるのは当然です。
そうですね。
>その結果、三兵団の総数10万人のうち、戦死あるいは戦傷病死が四万、ようやくチンドウィン河を渡れたのは6万とされています。 >その6万人のうち2万人は傷病患者であり、残る4万人も大ていはマラリアか赤痢に冒されていたと思われます。 >なお前に述べた見習士官の笹瀬軍医は、敗戦後に武装解除され、捕虜収容所にはいります。 >来る日も来る日も使役です。 >ようやく広島で復員手続きをしたのは、昭和22年3月22日でした。 >呉を出た鈍行列車は名古屋を過ぎ、故郷の豊橋に着きます。 >しかし街は廃墟同然でした。 >家らしい建物がひとつもない中に、レンガ造りの倉庫がぽつんと焼け残っていました。 >誰か尋ねる人はいないかと思い、鉄の扉が開いていたので中を覗きます。 >奥のほうに年寄りがいて、じっと見返していました。 >その人が「ヒロジ、ヒロジではないかね。 >無事だったか。 >よく帰って来たなあ」と言って、息子に抱きついて来ました。 >笹瀬軍医がアメリカ敗残兵服を着ていたので、見分けるのに数分かかったのです。 >「お前が生きていれば、いつかはここに帰って来るだろう。 >隣近所の人はみんな疎開したが、わしひとりはこの倉庫の中で待つことにしたのだよ」 >終戦後一年半以上ひたすら待ち続けてくれた母を抱きしめ、笹瀬軍医は涙するばかりでした。
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