>現代ビジネス >昭和天皇とマッカーサーの「初会見」の時、アメリカ兵が語った「天皇について驚いたこと」 >学術文庫&選書メチエ編集部によるストーリー・ >3時間・ >側近がみた天皇 >日本という国の現在のあり方を知るためには、その歴史を学ぶことが重要です。 >とりわけ、近代化を遂げた日本が、なぜ太平洋戦争という無謀な戦いに突入したのか、その戦争のさなかにはどのようなことが起きていたのか、そして、いかにして戦争が終結したかを知ることには、大きな意義があるでしょう。 >戦時中、国家の意思決定に大きな影響を与えた一人として昭和天皇があげられますが、その昭和天皇が戦中どのようなことをしていたかを知るのに便利なのが、『侍従長の回想』(講談社学術文庫)という本です。
われわれ日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任が無い。日本人は責任者捜しに苦労する。 たとえば【英対する開戦の詔勅】では 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。 開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。 となる。 天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。
>著者の藤田尚徳は、海軍兵学校、海軍大学校を出たあと、海軍省人事局長、海軍省次官などを経て、1944(昭和19)年の8月に天皇の最側近である「侍従長」となった人物です。 >本書は、藤田が1961年に侍従長時代のことを振り返ったもの。 >本書では、藤田の目から見た昭和天皇の戦中、戦後の日々がつづられており、そこからは天皇の知られざる姿とともに、当時の政府中枢の動向が見えてきます。 >たとえば、1945年9月27日に昭和天皇がアメリカ大使館にマッカーサー(マ元帥)を訪問することになりました。 >会見が行われている最中の側近たちの様子を紹介します。 >同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 >〈同日午前9時50分、黒塗りの御料車に私が陪乗、もう一台に石渡宮相以下が供奉して宮城を御出門、赤坂の米大使館に向ったが、正式鹵簿(ろぼ)でなく簡素な行列であった。 >宮城の御門、沿道の要所要所は、米兵が厳重に警戒していたが、米兵の表情は緊張し、むしろ陛下に対する尊敬の眼差しが多かったように思う。 >マ元帥は陛下を自室に案内し、通訳(外務省奥村勝蔵氏)を交えて三人で、およそ35分間も話しこまれた。 >私たちは次室で待っていたが、同座した元帥の副官フェラーズ准将が、陛下の感想を次のように私に語った。 >「天皇陛下はわれわれが今まで写真で知っている限りでは、こわい表情の方、ゴツゴツした方と思っていたのだが、いま玄関までお迎えして間近にみて驚いた。 >フランクな、しかも温和な表情の方だ」 >彼は“陛下”という言葉の言外に、特別な親しみをみせて語った。 >いま一人の若いパウア少佐も、「私は一度で、陛下が好きになった」と語ったが、“陛下”をもたぬ米国民の一種の憧憬もあったのであろう。
それは現人神の威力ですかね。
>会見を終えた陛下とマ元帥は、親しそうに次室に出てこられた。 >陛下は、まず石渡宮内大臣を元帥に紹介された。 >石渡宮相が一歩前に出て、元帥と握手する。 >陛下はついで、私を紹介されようとなさる。 >するとマ元帥は、自分から一歩出て、「アドミラル・フジタ。ハウ・ド・ユー・ドウ」 >陛下の紹介をまつまでもなく、元帥は私に先日の訪問の礼を述べて、いかにも自然に友情をみせた。 >部屋のなかが和やかになり、お互いの随員たちも、改めて挨拶を交わす。 >陛下のマ元帥訪問は、成功のうちに終った。 >この時の記念撮影で、いかにもゆったりと手を腰にやったマ元帥と、礼服に威儀を正していられる陛下を対照して、勝者マ元帥に対して敗者としての陛下が、いかにも圧倒されていたかのように伝える向きもあるが、決してそのような空気はなかったことを付言しておきたい。 >マ元帥は、尊敬の念をもって“陛下”(ユワ・マジェスティ)とお呼びしていた。〉
ヒットラーは勝算を見込んで (理性判断) 戦争に突入した。 日本人は勝算を見込むことなく (盲目の判断) 戦争に突入した。 マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。 ‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。 指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下) マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。だが、日本人は彼が考えるような知恵遅れの民族ではない。日本語文法には時制 (tense) というものが無いのである。待てど暮らせど非現実 (考え・哲学) を搭載する構文は日本人の口からは出て来ない。つまり自己の考えの内容が出て来ない。これが英米人の子供の行く末と違う所である。
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