開戦 |
>現代ビジネス >「海軍のトップエリート」はなぜ「開戦」を主張したのか >辻田真佐憲 (文筆家・近現代史研究者) によるストーリー・ >1日・ >戦後80年を迎え、私たちは「あの戦争」とどのように向き合えば良いのでしょうか。 >日本はどこで「間違えた」のか。 >そもそもいつ始まったのか。 >掲げた理想はすべて誤りだったのか。 >「大東亜」は日本をどう見ていたかーー。 >7月17日発売『「あの戦争」は何だったのか』(講談社現代新書)著者の歴史家・辻田真佐憲さんが、右でも左でもない「戦争の全体像」を描き出すために、素朴な疑問から「あの戦争」を問い直します。 >(※本記事は、辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』の一部を抜粋・編集しています) >「海軍善玉論」という逆張り >とはいえ、戦前の日本が分権的な体制であったのならば、海軍が徹底的に反対すれば戦争を防げたのではないかという疑問が生じるかもしれない。 >実際、対米英戦争を海上で遂行するのは海軍であり、陸軍としても海軍が明確に反対すれば、開戦を断念せざるをえなかっただろう。 >それでは、なぜ海軍は戦争を止めなかったのか。 >一般によく普及している考えとして、「海軍善玉論」というものがある。 >これは、「陸軍悪玉論」と対をなすもので、精神主義的で政治的な陸軍にたいし、海軍は合理的で冷静、さらには開戦にも反対であったとする見方である。 >たしかに、日米開戦に慎重な姿勢を示した海軍関係者が存在したことは事実だ。 >しかし、海軍が一貫して合理的であったわけでも、開戦反対で一枚岩であったわけでもない。 >実際には、陸軍と同じく内部に多くの対立と相克が存在し、それに意思決定が左右されていた。 >「海軍善玉論」も、一種の「逆張り」といえるだろう。 >たとえば、大東亜戦争開戦時に軍令部総長を務めた永野修身(ながのおさみ)は、連合艦隊司令長官、海軍大臣を歴任した海軍のトップエリートだったが(この三長官すべてを務めた人物は永野のみ)、「時間が経過すればするほど米英の戦力が整うので、早いうちに戦うべき」という「ジリ貧」論の立場を一貫して取っていた。 >1941年9月6日、米国から石油禁輸措置を受けた直後、昭和天皇臨席の御前会議で1回めの「帝国国策遂行要領」が決定された。 >そこには「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」という内容が含まれていた。 >ことの重大性を認識していた昭和天皇は、その前日、参謀総長の杉山元と軍令部総長の永野修身を宮中に呼び寄せた。 >そこで、天皇が杉山を「論破」したエピソードはよく知られている。 >天皇は杉山に「日米戦争が起これば、陸軍としてはどれぐらいの期間で片づける確信があるのか」と問いかけた。 >杉山は「南洋方面だけは3ヵ月くらいにて片づけるつもりであります」と答えたが、これに天皇は、つぎのように詰問した。 >「お前は支那事変当時の陸相だ。 >その際、陸相として『事変は1ヵ月くらいにて片づく』と申したことを記憶する。 >しかるに、4ヵ年の長きにわたり、いまだ片づかんではないか」 >「支那は奥地が開けており、予定どおり作戦ができず……」 >「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。 >いかなる確信があって3ヵ月と申すのか」 >これに杉山は応えることができなかった。 >この場面は、陸軍の非合理性を象徴するものとしてよく引き合いに出される。 >「ジリ貧」論を展開した永野修身 >だがこのとき、杉山の隣にいて、助け舟を出したのが永野だった。 >「統帥部として大局より申し上げます。 >今日、日米の関係を病人に譬(たと)えれば、手術をするかしないかの瀬戸際に来ております。 >手術をしないでこのままにしておけば、段々衰弱してしまうおそれがあります。 >手術をすれば非常な危険があるが、助かる望みもないではない、この場合、思いきって手術をするか、どうかという段階であると考えられます。 >統帥部としてはあくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合には思いきって手術をしなければならんと存じます。 >この意味で、この議案に賛成いたしておるのであります。」 (『最後の御前会議/戦後欧米見聞録』) >くどくどと述べられてはいるものの、結局のところ、外交交渉が失敗した場合には早期に開戦すべきだという主張に変わりはなかった。 >しかも、それは戦争に勝てるという見通しにもとづくものではなく、「このままだと状況が悪化するばかりなので、いま思い切ってやるしかない」という理屈だった。 >ただ、この「ジリ貧」論を覆すことはむずかしく、昭和天皇も「統帥部としては今日のところ戦争より外交に重点をおくという主旨と理解するが、そのとおりか」と念を押すにとどまった。 >以上は、陪席していた近衛文麿の記録によるものだが、杉山元の記録(『杉山メモ』)にも、昭和天皇が「絶対に勝てるか」と大声で問いただした場面が記されている。 >その問いにたいし、(史料上は明確でないが、おそらく)永野が「絶対とは申しかねます」と前置きしたうえで、「日本としては、たとえ半年や1年の平和を得ても、つづいて国難が来るのではいけないのであります。 >20年、50年の平和を求むべきであると考えます」と答えたとされる。 >昭和天皇はこれに大声で「ああ、わかった」と応じたのだった。
意思の無い人間には責任が無い。日本人は責任者捜しに苦労する。 たとえば【英対する開戦の詔勅】では 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。 開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。 となる。 天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。 兎角この世は無責任。
>結末を知るわれわれにとっては、永野の論理は無理筋に思える。
責任のある者は信頼される。そして尊敬される。 日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。だから信頼されることはない。一旦事が起これば、責任者捜しのために騒ぎが起こる。日本残酷物語の様な騒ぎになることもある。 肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。 徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
>だが、当時の空気のなかではよく練られており、これに反論するのは容易ではなかった。
好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦 (いくさ) でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日 残念ながらわが国は原爆開発においてアメリカに後れをとった。だから原爆に対する抑止力がなかった。しかし本土決戦と一億総玉砕はまぬがれた。めでたし、めでたし。 太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。 太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。 日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。 人の命はどのように考えられていたのか。‘ぬちだ宝’(いのちは宝)ではなかったか。
'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである' (昭和天皇)
(略)
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