>現代ビジネス >昔から変わらない日本人「最大の欠点」の正体…「原発事故・精神科病院・日米関係」で露呈した深刻な構造 >堀 有伸 によるストーリー • 11 時間前 >「書き言葉」と「話し言葉」 >現在、精神分析的な思考法は、そこに妥当性が認められる場合でも、その内容に厳密さが乏しいとして評価されないことが多い。 >一見無関係な出来事の中に、隠された構造が反復されているのを見出そうとするのが精神分析的な解釈であるが、強引なこじつけであると理解される場合もある。 >「背後にある構造」について定量的に評価することは容易ではなく、それについての説明を聞いても、その真偽を統計的に判定できないことが多い。 >しかし、人間が行う思考も、現実の世界に有効に働きかけるための道具であると割り切れば、「どこに問題があるのか」に見当をつけるための最初の段階で、おおざっぱな類似を指摘することも役に立つ。 >厳密な論証に耐えうる説明を細部にまで張り巡らすことは、いよいよ仕上げという段階では必要だろうが、最初からそれをすべてに求めることは、考えを先に進めるためには効率が悪すぎる。 >以下に進めるのは、そのようなおおざっぱな議論であることを最初にお断りしておきたい。 >現在の日本社会で起きていることをいくつか並べて、その全部に同じような構造が現れていることを指摘するつもりである。 >そのようにして、おおざっぱに問題のある場所を示し、そこに興味を持つ人が増え、その先に今よりも厳密な議論ができるようになることを願っている。 >人間の言葉を「書き言葉」と「話し言葉」に分類する場合がある。 >「書き言葉」の特徴は、その言葉が話された場所に限定されない永続性を持つことであり、そのために論理の一貫性が重要となる。 >それに対して「話し言葉」は刹那的で、論理的であることの重要性は低い。 >その場での影響力が強いことこそが重要で、話の内容以上に、口調であるとか雰囲気に、より重要な価値が認められる。 >「書き言葉」を偏重して「話し言葉」のニュアンスを理解できない人々の問題として、近年では発達障害(自閉スペクトラム症)が注目されていることを指摘しておくのも意味があるだろう。 >「日本的」な社会や心のあり方はその逆で、「書き言葉」への嫌悪と拒否、「話し言葉」の偏重がその特徴だと考えている。
そうですね。書き言葉では馴れ合いの人間関係は難しいですね。
>現在の苦境にある日本においても、アニメのような産業は有力なコンテンツであるが、「話し言葉」を重視する文化がそれを支えていると書いても、おおざっぱには間違っていないだろう。 >登場人物や背景の絵の描き方、そのセリフの口調やトーンに徹底的にこだわる姿勢は、西欧のような「書き言葉」こそが大事で「話し言葉」を軽く考える文化の中からは生まれてこない。
高文脈文化 (日本) と低文脈文化 (西欧) の違いですね。
>谷崎潤一郎が、日本では書き言葉においても、視覚的効果や音楽的効果を意識するべきであると論じた『文章読本』のことが思い出される。 >そんなことを考えている私の文章が、アスペルガー的な悪文になってしまっていたとしても、そこはどうかご容赦をいただきたい。 >社会的な問題へのあらわれ >このように「話し言葉」を偏重して「書き言葉」を軽んじる日本人の心や社会の構造は、どのような現れ方をしているのだろうか。 >最も問題なのは、「論理的な整合性のある永続的な仕組みをつくることへの熱意が欠如している」ことである。 >論理的な結論は面白くない。 >それよりも、劇的な、どこかにスケープゴートを見つけて、もやもやした感情のカタルシス [katharsis] が起きるような展開ばかりが求められてしまう。 >しかしそのようなことをくり返しても、社会としての経験や知恵の蓄積につながりにくい。
歌詠みのようなものですね。 自己の意思を示せば当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。だが、日本人には意思が無い。だから、高踏派か、孤高の人か。
>本来ならば、このような国民性を意識した上で、それを良い方向に導いていくのが政治に期待される役割だ。 >しかし現在の日本では、その日本人の特性と対決する姿勢を示すものは少なく、それに迎合しつつ依存し、それを助長する行動を示すものが多い。
そうですね。日本人はノンポリ・政治音痴ですね。
>2011年に国策として推進されていた原子力発電所で、大きな事故が発生し、その後処理にはまだ膨大な時間と手間がかかることが予想されている。 >そして2023年の現在、貯まっていくばかりの処理水を太平洋に放出することの是非が論じられている。 >これに強く反対する人のモチベーションの一つは、「国策」が十分なチェックを受けることなく暴走し、大きな事件や事故が起きる事態の再発を防ぎたいというものだ。
それは当然政治家が考えるべき事柄ですね。日本人は議論が出来ないから、チェックもできない。
>そのモチベーションは十分に理解できる。 >その時に、「廃炉」や「賠償」という原発事故後の処理に外せない事業を、「東京電力」という営利活動が本質の民間企業に担当させ続けることは、合理性を欠いているように思える。 >当たり前であるが、「廃炉」も「賠償」も利益を生む活動ではない。 >それを営利企業が担い続ければ、どこかで歪みが生じるだろう。 >あらゆる組織は、その組織の「本質」とそぐわない事業を担うことに不向きである。
そうですね。
>現状を続ける方が、国にとって便利であるというのは想像できる。 >「廃炉」も「賠償」も、どうしても誰かからの不満や批判の対象となりやすい。 >国が直営でそのような事業を担い、その権威に傷がつくのは困るという計算もあるだろう。 >言葉は悪いが「汚れ役」を東京電力が担い続けてくれた方が都合がよいと考えているのではないかと、どうしても勘ぐってしまう。 >しかし、安全に関する信頼性こそが重要な事業を実施する体制が、そのような「公」と「私」がズルズルベッタリと野合しているもので良いのだろうか。 >危惧されることの一つは、「外には公的にきれいごとを言うが、内部の弱い所にどんどんと歪みが押しつけられていく」振る舞いが横行することである。 >東京電力の経営層から地元の社員、さらに協力企業へと事業が展開していく中で、系列の末端近くに位置する職員への待遇が過酷になってしまう可能性を、否定することは難しい。 >そして、そのような力学が働く世界で長年過ごし、生き残って影響力を発揮するポジションに就いた偉い人たちが、安全性と社会への信頼を重視する価値観を身につけているか否かという点にも、疑問が生じる。 >そもそも、東京電力と国の規制当局との関係がズブズブだったことが、原発事故の発生に大きなマイナスの影響を与えたと指摘したのが、国会の事故調査委員会の報告書の内容だった。 >それなのに、そのような関係性のあり方を問題と考える議論がまったく盛り上がらないことは、残念でならない。
そうですね。
>ここで主張したいのは、廃炉や賠償のような事業を民間企業が担当することには無理があり、形式を整えて国直轄の事業とすることが適正だということだ。 >私は野口悠紀雄の『1940年体制-さらば戦時経済』という書物の内容に強い影響を受けている。 >これから引用する部分は、以前に「あれだけの事故が起きてもなぜ日本は「原発輸出」を続けるのか」という記事でも参照したことのある、1937年に国会に提出された「電力国家管理法案」についての陳述の一部である。 >くり返しになるが、もう一確認したい。 >「民有国営なる国家管理の新方式は、かかる社会的背景において、国策の要求に促されて、発案せられたものである。 >これによれば、国有国営の場合に見るがごとき公債の増発を要せず、拡張計画において議会の掣肘を受けず、その経営活動において会計法の制約を蒙らず、あえて官吏の増員を要せず、また面倒なる国家報償の問題も生じないのである。 >もしも民有国営なる電力国営の新方式がその合理適切性を一般に認められて、国家の経済統制の基本方式となるにいたるならば、国家統制は急速に発展し、しかも合理的に完遂されるであろう」 >野口によれば、この法案は紆余曲折を経ることになるが、その内容は戦後経済にも大きな影響を与えるようになった。 >要するに、国策として行う事業を民間企業に行わせれば、議会対応が楽であるし、人件費も節約することができる、という主張である。
議会・議論の価値が軽視されていますね。
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