日本・韓国・中国の三国はアジアにある特殊亜細亜三国 (特亜三国) である。これら三国は北東アジアにパクリ文化圏を形成している。
模倣力がめっぽう強く、創造力がほとんどない。
子供には、模倣・暗記のための学習が盛んに行われ、創造のための学習はなおざりにされている。没個性勉強が激烈で、入試地獄を作っている。英米流の高等教育は発達しない。
近年、三国は模倣商品の製造により経済力を得て、自己の励みにますます自信を深めている。
各国の政治指導者は、国内にたまる恨みを国外に発散させるように努力している。これは、きわめて危険な方策である。
意思がないので加害者意識 (罪の意識) がない。反省が心の奥底にまで届かない。罪をいやす宗教は発達しない。だから、相手から信頼されることもない。
被害者意識ばかりが社会に増幅されている。余力があれば、かたき討ちがしたい。
政治哲学がなく、国際社会の未来像を提唱することもない。未来社会の建設に関する国際社会への呼びかけもない。国際協力・協調の必要もない。
三国の言語には未来時制はなく、国民は ‘あるべき姿’ の世界・内容を想起できない。
>▼だからなのか、自民党の憲法改正案にこの表現はない。「人類普遍の原理」ではない、と言いたいのでは。そんな臆測も 浮かぶ。連想するのは、このところ中国で高まっている議論だ。人権や法の支配といった「普遍的価値」を唱える人たちに、保守的な勢力が激しい非難を加えている。「西側の敵対勢力の手先」などと。(引用終り)
英語を三国の共通語とするのが良いのであろう。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
日本語には時制 (過去・現在・未来の文章の区別) がない。だから、未来時制もない。
意思は未来時制の文章内容である。だから、日本人には意思がない。
理想も未来時制の文章内容である。だから、日本人には理想がない。理想実現の夢も希望も持っていない。
意思のあるところに方法はある。(Where there’s a will, there’s a way). 意思のあるところに自由がある。
意思のないところに方法はない。座して死を待つか。それとも進んで腹切り・玉砕するか。意思のないところに自由はない。
意思はなくとも恣意はある。恣意 (self-will) の自由は認められない。我が国においては、恣意には滅私奉公 (序列体制の中で恣意を消滅させる) で対応してきた。不自由を常と思えば不足なし。
恣意には文章がない。以心伝心で対応する。恣意が通じなければ、恨めしい。子供の状態と同じになる。
意思のあるところに罪もある。加害者意識 (罪の意識) にさいなまれる。贖罪の宗教が民衆に受ける。
意思のないところに罪はない。被害者意識だけが積りに積もる。怨恨、うらめしやー。
現在時制の内容で現実を表す。過去・未来の時制で非現実の内容を表す。
現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣である。
非現実の内容を現実の中で実現 (現実化) すれば、それは創造である。
三国の人には、模倣力があって、創造力がない。
小異を捨てて、大同につく。大同がなければ、小異を捨てる理由もみあたらない。
大同は哲学 (非現実) でなくてはならない。小異は現実である。時流に流されないためには、哲学の勉強が必要である。
我々は、無哲学・能天気ではいられない。