(略) >■「状元」の末路からみる中国教育の危機 >二日間に渡る入試が終わって結果が発表されると、さまざまな喜劇と悲劇が始まる。>入試に失敗した高校生が自殺したり行方不明になったりする事件が毎年に必ず起きてしまうが、その一方、統一試験にパスしたり、重点大学の合格証明書を手に入れたりした生徒たちと親族一同が無上の栄光と喜びを味わうのである。
悲喜こもごも、ですね。
>昔の科挙試験の首席合格者が「状元」だと呼ばれるのを因んで、大学統一試験では、その地方のトップ合格者を「高考状元=統一試験状元」と呼んで大いに褒め称える習慣がある。>「状元」となった受験生とその担任の教師は地方当局や学校から賞状と賞金をもらうのは普通であるが、盛大な祝賀会を開いたり、公衆の前で「状元」に赤絨毯を歩かせたりする地方もある。
没個性の励みに対する報酬ですね。科挙の伝統は、共産中国でも生きていますね。
>大学受験に合格すれば、特に「状元」ともなれば、あたかも栄光の頂点に立ったかの体験となるのだが、それからの人生は常に栄光の頂点に立てるとは限らない。 >実際、この数十年以来の「状元」たちのその後の人生に対する追跡調査もあるが、それによると、大学を卒業して社会人になってから、その大半は同世代の普通の人々より格別に優秀であるわけでもなければ、抜きん出で出世できたわけでもない。>激しい受験戦争は結果的に、知識の暗記だけが取り柄の人材を大量に生み出したわけである。
暗記は、一種の物まねですからね。猿まねの数が増えるだけですね。 現実の内容を現実の世界で再現すれば、それは模倣となる。 非現実の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造したことになる。 特亜三国 (日本・韓国・中国) の人々は、模倣が得意で、創造が苦手である。 特亜三国の学生は、いずれの国においても受験勉強に苦しんでいる。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 文章には二種類ある。一つは現実描写の文章であり、もう一つは非現実の内容の文章である。現実の内容は風景画になり、非現実の内容は哲学になる。 現実描写の内容は、個人により格別優れているわけでもない。日の下に、新しきものなし。非現実の内容は、個性を表している。伸びる可能性を持っている。
>こうした受験戦争に嫌気をさしたのか、最近、海外留学の道を選ぶ若者は増えている。 >現代版の中国流「科挙試験」はますます多くの若者にそっぽを向かれることとなろう。 >そこにあるのは、中国という国全体の深刻な教育危機である。
海外留学は、おおすめですね。非現実の内容を文章にするためには、時制というものが必要です。特亜三国の言語の文法には時制というものがないので、人々は非現実の内容を語らない。どこの国においても、話にうつつ (現) を抜かしてはいけないのです。 文章にならない非現実の内容には、もちろん意味が無い。矛盾も指摘できない。それをあえて三国の言語で敢行すれば、空想か、妄想になる。行き止まりです。漫画・アニメの大国になるのかな。 だから、英米に留学をして、時制のある英語を使って非現実の内容を文章に表現する勉強するのが得策ですね。そうすれば、人間固有の創造力が発揮できます。 現実の中に閉じこもる科挙の試験は、空しい限りですね。没個性の内容は、グローバルにもユニバーサルにもならない。そこにあるものは、中国全体の教育危機です。
.
|