2018年01月22日(月) 

 

>グローバル化によって国民の知的水準が低下するのは、全国の大学が互いに見分けがたく似てしまうからです。

 

良くも悪くも大学内の風通しは、良くなりますね。

 

>数値による格付けは「他の条件が全部同じ場合」にしか成立しません。

 

その条件の設定には、色々ありますね。

 

>つまり客観的な格付けを可能にするためには、すべての大学の教育目的や教育方法を規格化・標準化し、その上で量的差異を検出しなければならない。>比較される項の多様性・個性を消さないと定量的に精密な査定はできない。

 

そうですね。

 

>現に、日本中の大学は格付けを受け容れて、建学の理念も独特な教育方法も捨てようとしています。

 

それは、大学にとって格付けが非常に大切だという理解に基づいているのではないでしょうか。

  

>グローバル化のスコアを上げるために「1年間の留学必須」を掲げる大学が増えています。>4年間の教育のうち1年分を「アウトソーシング」する。>留学先に支払った残りは大学の懐に入る。>大学にすれば教育せずに授業料だけ徴収できる。>キャンパスに通う学生実数が減るわけですから、人件費も設備費も消耗品も、全てのコストが25%削減できる。>大学にとっては「おいしい話」です。

 

本当にそんなに ‘おいしい話’ なのですかね。

 

>いずれ「4年間のうち2年間の留学必須」を言い出す大学が出て来てもおかしくない。>そして、そのときになってはじめて人々は「それならいっそ『4年間留学必須』にすればいい。>そうすれば大学業務は留学手続きの代行だけになるから、PC1台バイト2人くらいで全業務が回せる。>もう教員もキャンパスも要らない」ということに気がつくはずです。

 

ついでに、‘海外留学斡旋所’ という看板を出しておくと、分かりやすいですね。

 

>そして、その「何もしていない大学」の「グローバル度化」がどれくらいのハイスコアになるかを知って驚愕することになるでしょう。

 

何を置いても、スコアが無上の楽しみなのですね。

  

>英語による授業数もグローバル化度の重要な指標ですが、日本語で最先端の高等教育が受けられる環境を100年かけて作り上げたあげくに、なぜ外国語で教育を受ける環境に戻さなければいけないのか。>僕には理由がわかりません。

 

それは、英語を使わないと、学問そのものができないからです。日本語には日本語特有の特性がありますからね。

 

>研究者の立場から言えば、母語で研究できることには圧倒的なアドバンテージがあります。

 

それは、英米人の場合にのみ当てはまることです。各国が母語にこだわっても研究にはなりませんね。

 

>研究上の新しいアイディアはしばしば「自分でも何を言っているのかわからない言葉が口を衝いてほとばしってくる」というかたちを取ります。>これは母語でしかできない。>僕は外国語では「自分がこれから何を言うのかわからないまま話し始める」という芸当はできません。

 

仕方のないことですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

 

>そして、母語でしか「新語」を造語することはできない。

 

ギリシャ・ローマの言語から、新語を作っているのではありませんか。

 

>それは、どれほど新しい概念でも既存の言葉の新しい用法でも、母語話者同士ではただちに意が通じるからです。>外国語ではそんなことはできない。

 

以心伝心では、言語の勉強はできませんね。脳内に概念が確立しないと、哲学 (非現実) を語ることはできません。

 

>日本語話者が思いついた英語の新語が広く流布して英語のボキャブラリーに登録されるということはまず起らない。

 

日本語の話者は、日本語の新語を思いつきますね。「ワープロ」も「パソコン」も「エンゲージリング」も「ナイター」もそうですね。カナで書かれた文字が英語であると思うのは間違いですね。カナ文字は英文に馴染まない。純然たる日本語です。これらの単語は、和文の中には表れても、英文の中に表れることはありません。

 

>現に、「ワープロ」も「パソコン」も「エンゲージリング」も「ナイター」も英語辞書には登録されなかった。

 

どの単語も英語には有りませんからね。だから、英語辞書には出ませんね。

 

>けれども、母語話者たちは新語・新概念を駆使して、独特の文化的創造を行うことができます。

 

独特な民族文化ですね。

 

>その知的な可塑性に駆動されて、知的探究が始まり、学問的なブレイクスルーが達成される。

 

哲学にはならないことも多いでしょうね。

 

>後天的に習得した外国語で知的なブレイクスルーを果すことは不可能とは言わないまでもきわめて困難です。

 

そのようなことは、無いでしょうね。知的なブレイクスルーを得るために、第二言語がはやっているのでしょう。

 

>公用語として外国語使用を強いられた旧植民地からいったい何人のノーベル賞受賞者が出たか、それを見ればわかることです。

 

外国語の使用とノーベル賞受賞は直接結びつかないでしょうね。英米においても、大学内とその外では、ノーベル賞の数が違うでしょう。

 

>繰り返し言いますが、大学のグルーバル化は国民の知的向上にとっては自殺行為です。

 

大学のグローバル化は、全知全能の神ではありませんね。でも、知的向上にとっての自殺行為だとも思いませんがね。

 

>日本の教育を守り抜くために、「グローバル化なんかしない、助成金なんか要らない」と建学の理念を掲げ、個性的な教育方法を手放さない、胆力のある大学人が出てくることを僕は願っています。

 

そうですね。他力本願・神頼みですね。日本の教育を守り抜く努力が見られませんね。無哲学・能天気でいては無理でしょう。

 

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>(転載おわり) 

 

 

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閲覧数510 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/01/22 04:55
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