>思考の自由を奪う教育>学校という空間では、「何でも言っていい」ということが徹底して否定されている。
日本語文法には、時制というものがないから、自由に発想された内容は、非現実 (考え) の世界の内容にはならずして、現実の世界における白昼夢になりますね。
>学校で子どもたちは、正しいこと、いいこと、先生の意向に沿うことを言うように訓練される。
これは、白昼夢を発しないための訓練でしょうね。
>間違ったことを言えば「違う」と言われ、悪いことを言えば怒られ、先生の意に添わなければ嫌われる。
先生の ‘意’ とは、先生の ‘恣意’ のことですかね。意味もなければ、矛盾も指摘できませんね。ただ、感情的になるばかりです。先生の顔色をうかがうことを覚えますね。
>もちろん正しいこと、良いことを教えるのは必要である。>人の気に入ることが何かを学ぶのも重要だろう。>けれどもだからといって、それ以外を排除していいわけではない。
そうですね。創造力を発揮する必要がありますね。
>この「それ以外」の余地が日本の学校ではほとんど禁じられているため、子どもたちは、その場にふさわしいこと、その場で期待されていることしか言わなくなる。
暗記力が役に立ちますね。創造的発想は役立ちませんね。斬新的な発言は期待できませんね。ありきたりばかりです。
>それがうまくできれば優秀な生徒として評価され、さもなければ出来の悪い生徒とされる。
学校は、ロボットの生産工場の様なものですね。社会の歯車になる規格品の人間が優秀な生徒ですね。
>許されているのは、与えられたことを決められたルールの中で行うことだけで、そのルールを守らせるために、教師は成績評価をアメとムチとして活用する。
スポーツの試合に参加している様なものですね。ルールは最初から決められていますね。
>学校において考える力は、そうやって枠をはめた状態で育成される。
ルールを覚えることに専念しますね。役立つものは、創造力ではなくて暗記力ですね。
>しかし発言の自由がないところには、思考の自由も自発性もない。
そうですね。非現実 (考え) の内容が文章として表現できないことは、日本人にとって致命的なことですね。
>問題はそれだけではない。>学校は教育の場と言うより、本来は学びの場である。>そして学びの主体は生徒である。>生徒こそが、学びの当事者である。>学びとは他の誰でもない生徒にとっての問題であるはずだ。
学 (まなぶ) とは、他の真似をすることでしょう。自分で考える事でない。
>しかし与えられたものを受け取るだけの学校では、学びの主体である生徒自身は、何をどのように学ぶかについて発言権がない。
そうですね。師はもっぱら弟子に教えを授けます。生徒自身は、発言権もなければ、自発性もない。受け身オンリーの生活ですね。
>学ぶべきことは教員が渡す教材、教科書のなかにある。>ある日突然教科書を渡され、それを学べと言われる。>そこに意見をさしはさむ余地はない。>「なぜそれを勉強するのか」「もっとこういうことを学びたい」というのは、けっして言ってはならないこと、考えるべきではないことだ。
教科書の内容は、考える人には必要のないことですね。もっぱら学ぶ人に必要なことです。
>自ら考えていないということは、自分のやっていることを自分で決めていない、選んでいないということである。>そうであれば、やったことの責任は本来とれないはずである。
日本人には意思が無い。意思のない人には、責任が無い。だから、説明責任はとれない。とかく、この世は無責任。
>にもかかわらず、結果に関しては、生徒が責任を負う。>たしかに生徒は、自分の成績が悪いことを教員のせいにすることもできる。>また良心的な教師なら、教え方のつたなさを反省し、自分の責任を認めるかもしれない。>しかし生徒がどんなに教員を非難しようが、教師がどれほど謝罪しようが、成績や受験の結果は生徒自身で引き受けるしかない。
そうですね。まいた種は、刈り取らなくてはならない。しかし、無意識のうちに蒔いた種には深刻な問題がありますね。我々は、考える人にならなくてはならないでしょう。
>要するに、学ぶということから見た場合、生徒も教師も、とれない責任をとろうとしたり、とらされたりしているのである。
そうですね。日本人には意思が無い。意思のない所には、方法 (仕方) がない。生起する問題に対処できない。だから、無為無策でいる。責任はとれないにもかかわらず、義務だけが残る。だから、日本残酷物語になる。 肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。 徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
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