2025年05月11日(日) 

 

>時事通信   >逮捕の男「電車止めれば影響大」=事件前、東大内で食事も―東大前駅刺傷・警視庁   >18時間・   

> 東京都文京区の東京メトロ南北線東大前駅で東京大3年の男子学生(20)が切り付けられた事件で、逮捕された無職戸田佳孝容疑者(43)が「電車を止めれば、世間への影響が大きいと考えた」と供述していることが10日、捜査関係者への取材で分かった。   

> 「狭いところで襲えば逃げられないだろうと思った」という趣旨の話もしており、警視庁本富士署が詳しい経緯を調べている。   

> 捜査関係者によると、戸田容疑者は「電車が到着したタイミングで事件を起こせば、電車が長く止まり、世間に与える影響力が大きいと考えた」「狭いところなら逃げられないだろうと思った」と供述している。   

> 同容疑者は7日午後6時53分ごろ、ホーム上で電車に乗ろうとした男子学生を背後から包丁で切り付けた。   

>車内に逃げ込む男子学生を追い掛け、さらに2回ほど襲ったという。   

> 同容疑者は当日、自宅のある長野県から上京したとみられる。   

>JR新宿駅周辺の商業施設に立ち寄った後、同4時半ごろに現場近くにある東大の敷地内に立ち入っていたことも判明。   

>「校内を散策し、食堂で食事をした」と供述しており、約1時間20分にわたり、滞在していたという。   

> 中学時代に親から、過度な努力を強いる「教育虐待」を受けたことが動機だとした上で、「東大を目指す教育熱心な親たちに、度が過ぎると子どもがぐれて、罪を犯すと示したかった」と説明。   

 

学問に名を借りた人間序列の争いに熱狂する我が国民の成れの果てですね。序列メンタリィティ (考え方) の禍を国民に広く知らせるべき時が来ましたね。     

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の機会獲得は難しい。    

 

>男子学生と面識はなく、「たまたま近くにいたので襲った」と話している。  

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく:  世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望を与えることがない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数24 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/05/11 13:26
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