2018年05月20日(日) 

 

 

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、ばらばらな単語でない文章の重要性を強調しています。

 

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

我々日本人は、単語を使って用事を済ませることが多い。それだけ文章の利用頻度は低いので、文章の重要性も理解されていないし、文章作成のために必要な文法の価値をも一般に認められていない。それで、’文法学校’ (grammar school) の伝統をもつイギリスの言語(English) を習得する時にも苦労することになる。

文章があれば、意味もある。その意味を相手に伝えて、’理解’ してもらうのが学習である。

単語には意味がない。しかし、わが国においては、忖度 (推察) により意味が得られると誤って信じられている。

これは、非言語の芸術である音楽・絵画・彫刻などを鑑賞する時に使う精神活動である。意味のないものには、’理解’ もない。単語による発言の世界とは、おおよそこうしたものである。以心伝心の世界は、アニマルの世界であろうか。

実際には、忖度は聞き手の勝手な解釈であるから、話者には何の責任もない。だから、議論にはならない。とかくこの世は無責任となる。ついでに話せば、責任(responsibility) という単語も日英の間で意味が違っている。その原因は、日本人には意思がないからである。日本語の‘意’ は、意思 (will) ではなくて、恣意(self-will) である。意思は文章になって脳裏に蓄えられるが、恣意は単語のままで腹の底にたまる。腹芸の原動力にはなるが、恣意に基づく行為の説明責任はとれない。

自分の考えた世界の内容を語れば、それは哲学 (philosophy) となる。日本人は、哲学という単語を敬遠する。考えというものがないからである。現実の内容は、頭の外にある。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。現実は、見ることができるが、非現実は見ることができない。ただの話になる。だが学問になる。わが国には、哲学体系ができない。哲学により我々は大同を示すことができる。大同を求めて、小異を預ける。(求大同 存小異) これで、相手と建設的な話し合いが可能になります。

英米人には、一人一人に考えが必要であると考えられている。Everyone needs a philosophy. そうでなければ、我々は烏合の衆になり、民主政治は衆愚政治になる。

日本人は ‘文法と哲学と理解’ を敬遠している。これは、深刻な問題です。だから、我々は国際人になれない。日本人が伝統的な自己の立場を主張して譲らない限り、国際的な相互理解は得られない。

文法に習熟し、作文して自己の意味を述べ、相手に ‘理解’ されなくてはならない。自己の世界観により大同 (非現実) を示し、小異 (現実) を預けることで相手と合意しなくてはならない。考え (非現実) を文章にするためには、英語が必要である。日本語では、現実は本当、非現実は嘘になります。英語ならば、非現実の内容は、考えの内容になります。その内容は、脳裏に内容が刻み込まれます。ですから、我々には、英語の勉強もしなくてはならない。英語を勉強すれば、世界観が得られます。来るべき世界の内容を語ることができます。大同団結の可能性が得られます。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

 

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。

ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

 

‘どうしても容認してほしい’ は、恣意ですね。リーズナブルでない。恣意を露呈すれば、英米人から‘恥を知れ’ (Shame on you!) と一喝される。これは、日本人の予期せぬ出来事である。恥の文化の国人の‘恥知らず’ でしょうかね。

文章の意味を ‘理解’ するということは、日本人には難しいようです。’ご理解ください’ は、’忖度 (推察) をお願いします’ といったようなものになるのでしょうね。和歌・俳句の鑑賞のようなものか。

 

 

 

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閲覧数631 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/05/20 12:10
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