2018年06月23日(土) 

 

 

 

>新井信介「京の風」リンク より引用します。>官僚の「忖度(そんたく)」支配。>これを続けるの?

 

現在の言語環境をそのままにして、忖度を廃止することは、難しいでしょうね。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、ばらばらな単語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>司法もその仲間?

 

日本語圏の司法もそうでしょうね。

 

>無責任体制の根源はここ。

 

そうですね。とかく、この世は無責任。

 

> (前略)

>今回の森友学園の認可と、国有地の払い下げが、どれほど異常なスピードで進められたものであったか、作新学園の船田元議員がテレビで指摘していました。>官僚たちが、時の権力者の思いを忖度する。

 

忖度 (推察) は、聞き手の勝手な解釈ですから、話者には何の責任もありませんね。とかく、この世は無責任。忖度の当人を非難すれば、’だって、本当にそう思ったのだから、仕方がないではないか’ と答えるでしょうね。月を見て歌を詠むようなものです。自然に歌になる。国を挙げて行う歌の道は、わが国の伝統です。

 

>そして、国家の許認可のために、一斉に動く。

 

以心伝心ですね。

 

>明治維新後、神聖不可侵の「天皇」の絶対権威を使って、権力者(軍部・官僚・財界)の意向を、臣民に強制した。>このときから、官僚たちの「忖度」は始まっている。

 

英語のように、伝達される情報は言葉の中で全て提示されるというのであれば、責任制度はゆるぎないものになりますがね。忖度の混入を許さない考え方をしますので、無責任を許さないことになります。

 

>戦前の反省から始まったはずの戦後の日本国家は、主権在民のはずだったが、「忖度」は、そのまま残っていた。

 

そうですね。文章は、理解で受ける。文章にならないものは、忖度で受ける。それが、日本人のやり方です。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。これは、英米流の考え方です。

こうした考え方によれば、考えにならないものによって、我が国民は政治的に動かされていることになります。

 

>このときの総理大臣が、当然、日本国家では最高権力者だったが、その人間が指示を仰ぐ人間がいれば、「忖度」は、その指示の発令者に向かっていく。>自民党の結党時から、そこには、アメリカのCIAがいた。>田中角栄以後は、さらに詳細に指示を出すジャパンハンドラーがいたのだろう。

 

事大主義が盛んですね。(一定の主義を持たず、勢力の強大なものに付随して自己の存立を維持する主義)

 

>では、民主党政権のあとの、第二次安倍政権のときに、なぜ、これが異常に膨らんだのか? 

 

第二次安倍政権は、人事権を手に入れたといわれていますね。

 

>しかも、メディアまで、完全に従わせた。 

 

わが国のメディアは、節操がないですね。やはり日本語脳のせいかな。

 

>「忖度」で、行政の各司(つかさ)の担当責任者が、どんどん法の枠を越えて、物事を進める。>これに対するチェック機能が、全くなかった。

 

日本語は曖昧な言語です。忖度で受けるしかない。

言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。

こんな言語環境では、誰もチェックはできませんね。

 

>司法も、「忖度」する側=官僚の味方だった。

 

司法も、勝手な解釈の味方ですね。もう遮るものなしですね。

 

>そして、この日本列島には、それを正す手段がなかった。

 

日本語圏には、忖度を正す手段がなかったということでしょう。忖度は、非言語の精神活動ですね。音楽・絵画・彫刻などを鑑賞する時のようなものですね。文章と理解という言語機能の範囲外にある活動です。

 

>今回、アメリカにトランプ政権ができて、ようやく露見した。>つまり、これまでは、皆、少しでも権力に近づくものは、この「忖度」の輪の中に入っていたのだ。

 

トランプ政権は、何事も型破りですからね。

 

>この状況を正すとすれば、それは、行政の最高権力者個人の、人間性、人格、力量に頼るしかないのか?

 

それも、日本語脳の持ち主には無理でしょうね。

 

>この部分を、法的に、規制できないのか?  

 

言語は、考える道具ですからね。言語に欠陥があったのでは、どうしようもないでしょう。

しかし、外人は日本語を話しても日本語脳の禍には煩わされませんから、我々も英語を鍛えれば忖度抜きの考え方もできるようになり、日本語を使う時にも閉塞感はなくなるでしょう。考えるときには、歌詠みの世界と縁を切ることが大切ですね。

 

>少なくとも、今回の森友学園の校舎建設に関わる、3通の契約書を存在させ、それを許したままにする、国家の制度(行政のありかただけでなく、司法も含める)では、「私物国家」のそしりが、今後も続く。>悲しいことだ。 

 

もののあわれか。歌詠みの世界ですね。

 

>中央集権化の中で、国有財産の分配のみならず、軍事行為も、エネルギー政策も、農業も、医療も、国民とは離れて、「忖度」官僚たちが制度をかってに運用し、実態を作っていく。

 

忖度は、聞き手の勝手な解釈ですから、話者には何の責任もありませんね。責任者のいないこの世は、まさに無責任制度です。

 

>しかも、結果に対し、だれも責任をとらない。

 

そうですね。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

 

>こんな統治体が、世界の中心になれるはずはない。 

 

同感です。政治音痴であっては、何事も始まりませんね。

>----------------------------------------------------------------

>引用おわり 

 

 

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閲覧数628 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/06/23 23:31
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