2018年08月13日(月) 

 

 

 

>多くの日本人は勘違いしているのだが、物を覚えるというのと、考えることができるというのは別のものだ。

 

そうですね。

 

>・覚える。>・考える。>この2つは似ているようで、まったく違う。

 

覚えるのは、割と易しいが、考えるのは難しい。

 

>覚えるというのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶するというものだ。>しかし、「覚える」というのは単なる基本であり、本来はそこからさらに飛躍しなければならない。>それが「考える」というものだ。

 

そうですね。現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。単なる話である。だから、その文章を理解しなくてはならない。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実の内容は、現実離れがしているので、日本人には信じることが難しい。日本人の考えにしたがえば、見ることのできるもの (現実) は、'本当' のことであり、見えないもの (非現実) は '嘘' である。

誰もが嘘つきにはなりたくないから、非現実 (考え) の内容は表明されることなく想定外になっている。かくして、無哲学・能天気の人々が、わが国には増えている。

 

>学校が物を覚えさせる場所であるというのは誰でも知っている。>しかし、考えさせているのだろうか。

 

考える人にはならないでしょうね。誰しも嘘つきにはなりたくないですから。

 

>日本の教育は、構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっている。

 

そうですね。日本の教育は、手っ取り早い構造になっていますね。

 

>覚えさせても、考えさせないのである。

 

それならば、洗脳教育にも利用できますね。昔は、皇民化教育というのがありました。筋金入りの人間ができます。

 

>「考える」という部分を軽視している。>なぜか。>それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解できるかもしれない。>学校とは、社会で通用する人間を作り出すところだからだ。>日本で「社会に通用する」というのは、サラリーマンになれるということでもある。

 

学校は、処世術を授ける場所であるということになりますね。現実的な要求にこたえるところということになりますね。日本人には、現実しかありませんからね。

 

>●教育とは子供を規格化するという側面がある

>学校は最終的に子供を社会で通用する人間に「矯正」する場所である。>子供を規格化するのだ。>日本では国民の8割がサラリーマンであることを考えると、日本の学校で重要な使命は「日本人がサラリーマンとして通用するように規格化すること」と言うことになる。>ここに問題がある。

 

どのような問題でしょうか。

 

>サラリーマンとは、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」ということができる人間でなければならない。>だから、日本の教育はその現状に沿って、そういった人間を作り出す仕組みになっているのである。

 

そうですね。集団の威力はたいしたものですね。不満はいくらでもあるでしょう。

 

>上記の特徴を、もう一度よく考えてみて欲しい。>あることに気づかないだろうか。>「上司の言うことをよく聞く」とは、自分の意見を持たないで指示待ちの人間になるということである。

 

上司の責任指導によるものですね。意見は一人一人にあるものですがね。

 

>つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

 

個人的に考えるのは、自由ですね。でも、それは上司になったわけではありませんね。

 

>「口答えしない」と言うのも、自分の意見を殺して会社の意向を無条件で重視するというものだ。

 

会社の意思決定に従うものですね。会社の責任は、上層部にあるのでしょう。

 

>つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

 

個人的に考えるのは、自由ですね。ただし、それは自分が上司になったわけではありませんね。

 

>「言われたことを忠実に行う」というのも、ロボットのようになるということであり、それはすなわち自分で「考えない」ことが求められている。

 

上司の責任指導によるものではありませんか。個人的な考えは誰でも自由でしょう。

 

>「不満があっても黙々と働く」という奴隷のような状態も同じで、「考えないようにする」ことで達成できる。

 

上司の責任指導によるものですね。個人的に考えるのは、自由ですね。

西洋人の責任には、意思と義務がある。自分の考えに従って行動し、義務を果たす。
日本人には意思がないので、責任は義務だけになる。これは、アニマルと同じである。だから、日本人の責任には、牛馬の苦しみがある。
一方、意思のない人には、責任がないと考えられている。これは、死刑執行人のようなもので、人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからである。日本人には意思もなく、責任観念もないので、責任者の重要性を明らかにすることが難しい。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

 

>「集団生活を優先する」というのも、結局は自分の意見や考えよりも会社集団を尊重するということであるから、「考えない」ことで達成できるのだ。

 

個人的に考えるのは、自由ですね。わが国は、責任者の責任を追及するのは難しい社会です。それは、日本人に意思がないからです。意思のない人には、責任もないと考えられるからです。

意思は、未来時制の文章内容である。英文法には、時制 (tense) というものがあるので、英米人には意思がある。日本語文法には時制がないので、日本人には意思がない。だから、日本人は優柔不断・意志薄弱に見える。

我々は、日本語と英語の両言語を学び、意思のある日本人といて国内外で活躍しよう。

 

>(略)

 

 

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閲覧数17 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/08/13 13:48
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