2019年07月20日(土) 

 

 

>ルース・ベネディクトが「日本は恥の文化」だと言った。

 

日本のような序列社会に生活していれば、序列人間に注意を払わないわけにはいきませんね。

 

(略)

> 団塊の世代は本当に世界視線がないですよ。>ほら、小学校に入ったときから60人学級とかに詰めこまれて、人口圧がむちゃくちゃあったから、人の目しか見えない。>団塊の世代の教授たちには、教授会の前の晩に作戦会議をやって多数派工作をしたりすることに燃えてる人も結構いますよ。>私の世代は恥ずかしくてそんなことできないけど。>要するに、多数派につくことが正義。

 

‘おおきいことは良いことだ’ のようなものですかね。

 

>向こう側の神仏に見られている私の正義ではなくて、この100人の中でいかに多数派を取るかという、株主総会みたいな正義なのです(笑)。

 

分かりやすい正義ですね。

 

> 団塊の世代で大きな世界視線が失われてしまいましたが、今の子たちはもう一回それを回復する力があると私は思っています。

 

そうであると良いですね。世界観がなければ、世界視線もないでしょうね。

 

>単線的な世界観がもう骨にも肉にも血にもなっちゃったのが団塊の世代だとすれば、今の子たちは日本が右肩上がりの状況を一度も知りませんから、逆に社会が複線であるということをわかってくれる素地がある。

 

今の子が世界観を持てると良いですね。単線・複線の世界観に関する問題ではないでしょう。

 

> 教育者や経済人も、早く団塊の世代に引退してもらって、より心のある人間がトップに立ったほうがいい。

 

団塊の世代の引退は、改革の切り札にはならないでしょうね。’より心のある人’ とは、どのような人ですか。

 

>でも、その後で今度はどういうビジョンが語れるのかが問題になってきます。

 

日本人にビジョンは無理ですね。 日本人には、世界観 (world view) がない。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容は、文章内容を理解しなければ分からない。理解は骨の折れることである。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

非現実 (考え) の内容は、時制のある文章になる。時制のある文章は、独立した非現実 (考え) の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。それらの世界の内容は白紙状態にある為に、英米人は自分自身で内容を入れなくてはならない。だから、彼らは、思春期になると ’考える人’ になる。各人に、哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. だが、日本人には、この必要性は生じない。日本語には、時制がないからである。だから、日本人は、無哲学・能天気でいられます。

 

>山折:それはやっぱり3つの問いにいくんですよ。>さっき宗教を信じるか信じないかという話が出ました。>やっぱり西洋の一神教的世界においては、神、あるいは神と類似のものを信じるか信じないかが重大な問題なのですが、多神教的世界における日本人にとっては、信じるか信じないかではなく、神々の気配を感じるか感じないか。>「感じる宗教」なのです。

 

信じるものは、言語内容ですね。その言語内容は、文章の内容ですね。それは、客観的ですね。

感じるものは、非言語の内容ですね。その感じる内容は、自分の内容ですね。それは、主観的ですね。

 

>「信じる宗教」と「感じる宗教」を分けて考えると、日本人の心のあり方がよく理解できる。

 

そうですね。信じる内容には、客観性がある。感じる内容には、客観性がない。

 

>山に入れば山の気を感じて、そのかなたに先祖を感じたり、神々や仏たちを感じたりする。

 

そうですね。まるで、展覧会に入場するようなものですね。各人がそれぞれに感じますね。

 

>お守りをズタズタに切ることができないというのは、たたりがあるという深い深層心理が働くからでね。> 何か悪いことが現実に起こると、それは何ものかのたたりだと。>神々のたたりだ、死んだ人のたたりだ、生きている人間の怨念がたたりになる。>それを気配として感じる。

 

常に我々は、びくびくしていますね。相手は、恣意 (私意・我儘・身勝手) 的なようですね。客観性がないからでしょう。

 

>そういう鋭敏な感覚が、逆にわれわれを育ててきた。>気配の文化と言っていいかもしれない。

 

そうですね。我々は、気配を恐れていますね。野生の生活のようなものですね。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。世俗的な ‘ものの上下’ を判断できないと、日本語会話も流暢なものにはなりません。また、礼儀作法も序列作法に基づいていますので、世俗の上下判断が正確でないと、礼儀正しい日本人になることも難しいです。’人を見損なってはいけない’ という想いが日本語脳の中で強迫観念の域にまで達していますから、日本人は、いつも神経を高ぶらせている必要があります。

 

(略)

>やっぱりわれわれ自身の文化、つまり、「自分とは何か?」を考えるための教養が、ものすごく必要だということです。

 

そうですね。西洋人であれば、‘我々は、何処から来たか’ 、’我々は、何者であるか’ 、’我々は、何処に向かうか’ の内容を常に考えるでしょうね。

 

>ここで教養が出てくるんだな。

 

英米人は、大人になるころ高等教育機関に進学して哲学を学ぶ。すると、教養がつく。日本人は、英米流の教育機関に進学しても、学ぶことがない。だから、彼らは、4年間を大学で遊んで過ごす。無哲学・能天気の国民には、教養をつける機会が存在しない。海外留学の価値を認識することもない。

 

> 上田:日本の宗教は牙を抜かれているところがあります。>たとえば仏教における「縁起」にしても、自分がどれだけ生かされているかを異常に強調します。>たとえば日本仏教の最大教団である浄土真宗とかでも、親の恩徳、師主・知識の恩徳、如来大悲の恩徳、阿弥陀様の恩徳って、後ろからどれだけ私が恩を受けているのかを強調している。>それはいいのだけど、その恩を受けている主体としての私はどう生きたらいいのかというと、明確な答えがない。

 

そうですね。恩は受動的なものですね。これは、日本人にはわかりやすい。意思の無い日本人には、能動の内容が想定外になっていますね。

 

>「その恩を感じながら、どんなことがあっても我慢して生きなさい。>我慢して生きるのはいいんだよ」みたいなノリで説かれることが多いわけです。

 

不自由を常と思えば不足なし。自由とは、意思の自由のことですね。意思の無い日本人の我慢は、言葉のないアニマルのような心理状態にあります。意思がなければ、解決方法もない。’その苦しみは、どんなことがあっても我慢して生きなさい’ ということになるでしょう。

 

> 「あなたも次の先祖になるのだから、未来の社会を切り開いていく責任があるんだ」というふうな、未来を創造していく主体の形成みたいなものにも結び付かない。

 

日本人には、現実しかない。日本語には、実況放送・現状報告の内容のみを表すことができる。過去の内容は ‘幻’、未来の内容は ‘夢’ となってまともには相手にされません。

未来社会の内容は、未来時制の文章内容としてどこまでも展開することができます。しかし、日本語には時制というものがないので、日本人は未来の内容を語れない。だから、日本人は、未来を創造してゆく主体になることは難しいでしょう。

 

>親鸞さんとか法然さんとかの師主・知識は断罪され島流しになっても頑張ってきたのだから、その恩に報いるためには、あなたもその覚悟を持って行動しなさい、というのが「報恩感謝」のはずなのですが、いつの間にかその主体の部分がごっそり脱落している。>これは真宗に限らず、どの宗派でもそうですね。

 

意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. しかるに、日本人には意思がない。仕方が無いので、無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。日本人には精神修養が必要であると説く人も出てくる。

 

> 「どんなことがあっても、文句を言わずに与えられた場で生きていきなさい」みたいな説法の仕方をして、「南無阿弥陀仏さえ唱えていれば極楽浄土に行けるのだから、恐れず行動を起こしなさい」的な言挙げもしない僧侶が多い。>まあ私の知り合いの僧侶たちは、行動派も多いけど、彼らは「他力を頼んでないで、自力だ」と非難されてしまうわけで。

 

意思の無い人には、能動がない。受動ばかりの人は、他力本願・神頼みになる。

 

(略)

> 西洋人は知っていますよ。>ソクラテス、プラトン以来の伝統がいかに重要かということを。>ところが日本人はそれがない。

 

無哲学・能天気な国民 (日本人) には、哲学の重要性を理解すること無理でしょうね。

 

>これがやっぱり教養の重大な質の違いでしょうね。 

 

自己の非現実 (考え) の内容を語ることできない人間は、子供のようなものですね。

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、文法における時制の有用性を十分に理解すべきでしょうね。時制を使って自己の ‘意思と世界観’ を表現できるようにすることが必要です。さすれば、自説が国際的に広く理解されて自己に対する信頼度を増し、未来社会の建設に多数の協力者を得ることも可能になるでしょう。具体的には、我々は努力して日本語と英語に堪能になることが必要でしょうね。さすれば、伝統的な日本語の困難を克服できます。英米人は、日本語を話すときでも、日本語の閉塞感に囚われることがありません。それは、日本語以外の考え方も心得ているからでしょう。

 

 

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閲覧数518 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/07/20 06:06
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