>かくして、教科書は、宗教の聖典以上に、絶対なものとなる。>宗教の聖典に書かれていることは、迷信でも、教科書に書かれていることは、真理である。
天罰てきめんですからね。学校では絶対ですね。
>白いものでも、教科書に黒と書かれれば、黒になるのである。
そうですね。‘嘘も百回言えば真実になる’。(ヨーゼス・ゲッベルス)
>教科書に書かれた英語が、言葉として使い物にならなくても、試験に出る以上、マスターしなければならないのである。
そうですね。試験は序列判定のために存在するのですからね。その内容の吟味は二の次になりますね。
>学校においては、教科書に書かれていることが、真実であり、真理である。
信心のようなものですね。学校は特殊な社会ですね。
>そこには、現実も事実も入り込むことはできない。
現実に生きている人は困りますね。現実直視ができないと卒業してから実社会で困りますね。
>なぜなら、教科書こそ学校や教師の権威の源泉であり、試験制度の土台だからである。
そうですね。権威の源泉は人間序列の中にあるのでしょうね。
>そして、試験制度によってしか、今の教育制度は維持できないからである。
序列順位の獲得競争の為にわが国の教育制度は存在価値があるのですね。
>教科書の絶対性が失われたら、試験制度は土台から崩壊し、学校は、生徒を管理する術を失い、教師に対する生徒の信頼は失われる。>故に、学校では、教科書に疑問を呈することは、タブーなのである。
教科書に疑問を呈する行為は天動説を疑うガリレオのようなものですね。後には宗教裁判が控えている。
>現実の社会では、正しい答えであっても教科書に載っていなければ、学校では間違いになる。
極端な教科書中心主義ですね。
>現実に大学で教わる方法で、高校の試験問題を解けば、答えはあっていても間違いになる。 >その理由は、高校では、教えていないからである。 >小学校の時、代数を使えば簡単なんだけどなと、つぶやいた先生がいた。
序列順位の争いは、あくまでも同じ土俵の中での勝負で決まりますね。そうでなければ公平な序列判定にはなりません。
>現実の世界は、教科書に書かれていないものだらけである。 >しかも、教科書に書かれていないことの方が大切なことが多い。 > 本来なら、現実を観察し、そこから、学び取る真摯な姿勢こそ教えるべき事である。
そうですね。観察と実験が現実直視の方法ですね。
>その意味で、少なくとも学校には、人生の教科書と呼べるものはない。
人生に関する考えは人生哲学 (the philosophy of life) になりますね。
>まともに話し合うことができる場所が、学校の本来の姿なのである。
そうですね。考える人 (the thinking man) には、対話・議論が大切ですね。
>子供達もそれを望んでいる。 >人生についてまともに、相談できる相手こそ、真の教育者なのである。 >子供達もそういう師を求めている。 >生きていくうえで必要な多くの示唆に富んだものが、優れた教科書なのである。 >子供達も、そういうものを欲求している。 >しかし、恋人の見つけ方やつきあい方を、相談できるような人生の師は、学校にはいない。
人生相談はできないのですかね。日本人は、無哲学・能天気ですからね。
>教科書には、生きていくために必要な、人とのつきあいかたやしつけは書いてない。
日本人の礼儀作法は序列作法でなりたっていますからね。昔の修身の教科書には序列作法が出ていましたね。
> 子供達にもたらされるのは、虚脱感と空しさだけだ。
万事が現実離れがしているからでしょうね。
>現行の教科書の間違いは、一律に、一定の解答があると、思いこませることだ。
考え (非現実) の内容は、人により違いますからね。考えの内容は頭の中にある。それは見ることができない。内容は文章を文法によって理解しなくてはならない。これは骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常理解をしない。忖度 (推察) で間に合わせている。 司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えでない。 矛盾を含んでいない文章は全て正しい考えを示している。考えは人により違っている。だから、正解は一つではない。多数ある。
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