>「投書階級」のように、自分たちの価値観に合わないものを「社会にとって害だ」と排除し始める。
'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン) 無哲学・能天気な人たちが自分たちの価値観を主張することには問題がありますね。
>たとえば、当時戦争に反対する「非国民」を一般市民が棍棒を持って追いかけ回して袋叩きにする、という事件が珍しくなかったが、それは軍部に命令されたわけではなく、市民たちが自発的に行ったことなのだ。
日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ であるから、社会にとって害である。そこで、’もっと厳しく統制しろ’ ということになる。
> こういうムードが極限まで盛り上がると、やがて国民は公権力に対して求め始める。>「日本のために秩序を乱す者たちを、もっと管理しろ」「もっと厳しく統制しろ」と――。 > これが、日本が全体主義へのめり込んでいったプロセスである。
恣意的な人間同士の不信感ですね。
> 「陸軍のエリートが暴走した」「軍を抑えられなかった政治家が悪い」「マスコミが戦争を煽った」などといろいろ言われるが、やはり「全体」というだけあって、日本社会がおかしな方向に流れても誰も止められなかった最大の原因は「民意の暴走」にあるのだ。
民意は民の意思ではなくて、恣意ですね。ブレーキのない機関車による暴走のようなものですね。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。 日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。
> そして、今回のコロナによって、我々はこの「いつか来た道」をまた進んでいる恐れがある。
そうですね。日本語の文法は変わらない。日本人には批判精神がない。だから、歴史をただ繰り返す。
> ご存じのように、日本のコロナ感染者数や死者数は、他の東アジア諸国とともに、欧米などと比べものにならないほど少なく抑えられている。>しかも、そんな日本のコロナ収束は、緊急事態宣言による外出自粛や休業要請による効果ではないことがわかってきている。> 大阪府の専門家会議で、大阪大学核物理研究センターの中野貴志センター長が指摘しているように、政府の専門家会議で「今のまま対策を取らなかったら42万人が死にます」と警鐘を鳴らしていたとき、実はすでに感染はピークアウトを迎えていた。> つまり、科学的データや客観的事実を踏まえれば、現時点で外出禁止や強制休業といった法整備の必要性は、これっぽっちもないのである。> しかし、「民意」は外出禁止や強制休業の法整備を求めている。
‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている’。 (ウスビ・サコ)
>論理的に考えてそのような結論になったわけではなく、ルールに従わない輩にペナルティを与えないと「社会全体にとって害になる」「真面目に自粛していた人間がバカを見る」という、極めて雑で排他的な「空気」に流されているのだ。
そうですね。我が民族の伝統ですね。‘一億総玉砕’ の精神ですね。
> こうなったときが、日本人は一番恐ろしい。
そうですね。民族滅亡の瀬戸際ですね。
.
|