>東京新聞 ><社説>戦後80年に考える 「配給された自由」はいま >6時間・ > 今年は戦後80年の節目です。敗戦直後の日本を、知識人らはどう受け止めていたのでしょうか。 > 「八月十六日以来、わが国民は、思いがけず、見馴(みな)れぬ配給品にありついて戸惑いしている。 >--飢(うえ)た我々に『自由』という糧が配給されたのだ」 > 1945年10月26、27日の東京新聞(現在は中日新聞社発行)に掲載された「配給された『自由』」と題する一文=写真=の書き出しです。 >文芸評論家の河上徹太郎が寄稿しました。 > 「自由が亦(また)舶来と来ている。 >舶来品も食物なら口から腹へ通せば先(ま)ず間違いないのだが、自由の対象が思想であれ制度であれ、それが翻訳され方策化される間に、ついその真意が逸脱してしまう」 > ちなみにこの論考は革新陣営には不評でした。 >河上が戦中の政治家をなじることが「自由」の真意ではないと批判したためです。 >◆自由に伴う自立と自治 > では真意は何か。 >河上は自由は素晴らしいが、容易に扱える代物でないと考えていたのです。 > 国民が敗戦により国家主義や軍国主義の軛(くびき)から解放され、自由になったのは確かです。 >ですが、同時に人々には、自由を行使する責任も課せられたのです。 > 彼が案じた一因は国民の気分にありました。 >戦争終結に安堵(あんど)しつつも、戦争の原因や責任の追及より「いわば天災の一種と観(かん)ずる」人が大半だと指摘しています。
そうですね。それは天災ですね。自然現象ですね。
> 独裁者を民衆が倒したイタリアなどと違い、自由を自力でもぎとったわけではないからです。
そうですね。日本人には意思がない。
> 自由が逆に、人びとを孤独や不安にさせ、権威者への服従を希求させるというドイツの社会心理学者エーリヒ・フロムの考察が脳裏をよぎったのかもしれません。 > 自由な時代は、国民が主権者となる社会の到来を意味します。 >前提として個人の自立と、自らを律して共同体を築き上げる自治の精神が求められますが、大半の日本人には未知への挑戦です。
そうですね。
> 河上は「己が身についた身上を総決算して見るべきだ」と記します。 >一人一人が戦争に対する自らの姿勢を省みずに、自立も自治もないと考えたのでしょう。 > ただ、大多数の国民の関心はそうした議論よりも、眼前の困窮生活からの脱却にありました。
そうですね。日本人は現実肯定主義の人ですからね。非現実 (考え) は得意ではない。
> 日本は間もなく、朝鮮戦争による特需で経済的復興の兆しをつかみ、主権回復後には高度経済成長期を迎えます。 > 戦争への悔恨と嫌悪は60年安保闘争でも示されましたが、「滅私奉公」の精神は、対象を国家から企業に代えて生き続け、「経済大国」に結実します。
そうですね。日本人には意思がない。だから、滅私奉公になる。
>繁栄の一方、自由や理想主義の探求は置き去りにされたのです。
そうですね。無哲学・能天気の人には主義主張は無理ですね。
> そうした社会への異議申し立てがなかったわけではありません。 >60年代後半には若者たちがベトナム戦争を巡る日本の加害性や学術の社会的責任を追及し、作家の三島由紀夫は「経済的繁栄にうつつを抜かし」た日本人の精神性を批判し、割腹自殺に至りました。
日本人の無哲学・能天気は割腹自殺では治りませんね。
> しかし、いずれも国民の意識を変えるには至らず、日本はバブル経済とその崩壊、長期の経済低迷期を経て、現在に至ります。 > その間、自由の意味も変質しました。 >弱肉強食の新自由主義が台頭して自己責任が強調され、相互扶助的な精神は弱まりました。
日本人は序列社会の相互扶助ですからね。意思の無い日本人には責任がない。
> 関係が断たれた人びとは孤独を募らせ、交流サイト(SNS)上の声高な主張に群がる架空の共同体に引き付けられてゆきます。 > 当事者らの闘いで、不十分とはいえ女性や障害者ら少数者の人権は獲得されてきましたが、自由を履き違えた差別扇動の強まりが、そうしたかけがえのない成果を脅かし、言論空間の自由は萎縮するばかりです。
自由とは意思の自由の事である。日本人には意思がない。だから、自由そのものにも意味がない。 しかしながら、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意に自由は ‘自由の履き違い’ とされている。だから日本人は、’不自由を常と思えば不足なし’ ということになっている。
> これが戦後80年の荒涼たる風景です。 >世界を見回しても、権威主義国の台頭とポピュリズムの横行で、自由は縮んでいます。 >◆戦後の初心に返る好機 > 戦後日本の課題は「配給された自由」に、実体を与えることでした。 >憲法12条は国民の自由と権利について「国民の不断の努力による保持」を要請しています。 > 河上は先述の寄稿で「自由とは到達すべき結果」と規定します。 >だとすれば「保持」どころか、私たちが本当の自由を手にしたか否かを検証する必要があります。
そうですね。
> ただ、悲観的でばかりもいられません。 >視点を変えれば、繁栄の酔いからさめた今の日本は、自由を希求する戦後の初心に立ち返る好機かもしれないからです。 > 与えられた自由を具現化し、自らのものにする。 >それが達成されるまで、戦後は終わりません。
そうですね。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々の考えの内容は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。 「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)
日本人は氏名を正しく (?) 読むことができない。だから役所の書類にはフリガナ欄が設けてある。これをローマ字欄に換えるだけでも国語の改革になる。これは国の指導ですぐにでもできる国語改革である。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。各々の政治家は日本の国際化に鑑みて日本語の表記法に深い関心を持つべきである。
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