2020年11月07日(土) 

 

 

>357322 持つ物は夢ではなく志である。 >社会に出る子供たち ( 12 類学舎生 )  20/06/01 PM01 【印刷用へ】 

>社会に出ている子供たちは、夢と言うより志に近い物を持っている。

>リンクだが学校などは「志」より「夢」とか「将来何になりたい」とかがとても重要視されている。>疑問が浮かぶ。> 「夢って何?」「志ってなに?」というもの。>夢とか志の違いに触れていこうと思う。

>  以下、夢と志の違いって何?リンクより転載

> ~~~~~~~~~~~~~~~

> 戦前は「夢」と言う言葉は あまり使わなかったようです。

 

日本人の夢とアメリカ人の夢は違っているようですね。日本人の夢は ‘夢・現 (うつつ・現実) ・幻’ の中の三つの中の一つ、即ち ‘夢’ ですね。日本語の文法には時制というものがないので、未来と過去の内容は (非現実) 文章になりませんね。ただ現実のみが文章になります。文章にならないものには意味がないので、日本語の夢と幻の内容には辻褄が合いません。日本人は ‘夢・幻の人の世’ に住んでいます。

アメリカ人の夢は、過去・現在・未来の中の一つ、即ち未来の内容ですね。英文法には時制 (tense) というものがありますので、それぞれの時制はその非現実 (考え) の文章内容を表すことができます。未来の内容は文章になって夢の内容となることができます。  

彼らの夢は非現実の内容となって現実の中に確実に存在します。以下はその一部です。

 

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: We hold these truths to be self-evident that all men are created equal.   

私には夢があります。いつの日か、この国が立ち上がりその建国の信条の本当の意味 – つまり ‘我々は、全ての人間は平等なものとして創造されたということを自明の理として確認する’ - と共に存続するようになるという夢です。

I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.  

私には夢があります。いつの日か、ジョージアの赤茶けた丘の上で、昔は奴隷だった人々の子孫と、昔は奴隷の所有者だった人々の子孫が、同胞のテーブルに一緒に座ることができるようになるという夢です。(引用終り)   

 

アメリカ人の夢 (未来) は文章内容になるので意味・意義がある。価値判断の対象になります。そして、その発表者は不滅の人になります。

日本人の夢は恣意 (私意・我儘・身勝手) であるから辻褄の合った文章内容にならない。だから、夢・幻 (非現実) を語る者は相手にされません。

 

>しかしその代わりに使っていたのが「志」でした。 

 

志は恣意ですね。

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。 ‘自由のはき違え’ となるから、昔からの ‘不自由を常と思えば不足なし’ のままである。 

欧米人は哲学と意思により行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は (口実・言い訳・言い逃れ) である。本音は、(私意・我儘・身勝手) である。ですから、現実の中に行為がうずもれて低俗な感じは避けられない。相手の理解も得られない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。考察の対象にはなりません。

 

> 志と夢の違いはいったい何でしょうか? 

 

非現実を内容を ‘文章化している’ (アメリカ人の夢) か ‘いないか’ (日本人の志) の違いでしょう。   

 

>そして、どうして「夢」を使うようになってきたのでしょうか? 

 

西洋人の夢は世界的に評価を受けるから生きています。そして、日本人の夢は評価の対象にならないから捨てておかれます。  

 

(略)

> 言い換えるなら、 夢とは、達成できたらいいな~という個人の目標や希望であり、あいまいな想いの可能性も高いです。 

 

アメリカ人の夢 (非現実) は未来時制の文章内容になるので自己の確信になります。

日本人の夢は文章内容にならないので曖昧な思いのままで存在します。  

 

> 一方、志は個人の願いだけでなくよりもっと公的で、周りの人を幸せにしたいという想いであり、そして、行動も伴っているもの。であるといえます。 

 

‘志’ は文章内容にならないので、’とらえどころのないもの’ になります。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」  

 

 

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閲覧数206 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2020/11/07 13:40
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