>ハーバー・ビジネス・オンライン 政治・経済 ニューヨーク・タイムズの香港拠点が、東京ではなくソウルへ移転した「本当の理由」 >2020.08.21 >印刷 >浅野健一 > バックナンバー >海外メディアはソウルの「報道の独立性」について報道 > 海外メディアは、英BBCが「報道機関を動揺させ、ジャーナリズムのハブとしての香港の将来を不確実なものにした」「香港で中国が施行した、広範囲にわたる新たな治安維持法は、私たちの事業とジャーナリズムにその新規則がどう影響するのかをめぐって、多大な不安を生んだ」と指摘した。 > BBCの日本語版サイトによると、NYTの広報責任者のアリ・アイザックマン・ビヴァクワ氏の「私たちはビジネスと印刷のハブ機能を香港に置き続ける予定だ。 >一方で、徐々にデジタル編集のハブをソウルに移し、動きやすさを確保すると同時に、地域の資源(情報)に簡単にアクセスできるようにしていく」とのコメントを伝えた。 >ソウルでは情報に自由にアクセスできる環境があるという見解だ。 > 米CNNも「中国による香港の統制が強化されたことを受け、地域の拠点をほかにも設ける必要があるとの判断に至った」というNYT幹部の見解を伝えている。 > 日本でNYTが「報道の独立性」でソウルが選ばれたことが報道されなかったのは、『共同通信』と『時事通信』がともにその点を報じなかったことの影響も大きい。 >米国など海外メディアが「日本には報道の自由が存在しない」と見ていることを、日本の政府・民衆が知らないことは危険だ。
そうですね。危険ですね。 わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べでマスコミにも個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。
>「日本には高水準の『報道の自由』がある」という錯覚 >外国人記者イメージ >多くの日本人は「日本では民主主義が機能している、報道の自由もある」と思い込んでいる。 >日本語だけで情報が流れ、完結しているので、外国から見たらどう見えるかを考えない。
そうですね。日本語だけで情報が流れ完結しているので、日本人は井の中の蛙ですね。
>かつては、NYTや『ワシントン・ポスト』の日本論評が紹介されたが、最近はそれも激減している。 > NYTには東京支局(朝日新聞東京本社ビル内)があり、東京特派員は韓国・朝鮮(DPRJ)、台湾もカバーしてきた。 >NYTがアジアの編集拠点を香港からソウルに移すことは、NYT東京支局がソウル・オフィス(実質的にはアジア太平洋支社)の傘下に入るということになる。 >東北アジアの政治・経済・文化の勢力関係が大きく動いている。
東京の地盤沈下ですね。
> NYTのノリミツ・オオニシ東京支局長(日系カナダ人)は2005年9月7日、「なぜ日本は一党に統治されることに満足なのか」と題する記事でこう書いたことがある。>「日本の民主主義体制は東アジアにおいて最古だが、政権党は中国、北朝鮮の共産党とほとんど同じくらい長期間権力を掌握している。
そうですね。政党は一強多弱ですね。寄らば大樹の陰か。
>南朝鮮や台湾の民主主義体制の歴史は日本より短いが、すでに政権政党の交代を何度か経験しており、生気にあふれる市民社会から強固で独立した報道機関まで民主主義を支持している点で、日本よりも輝いているように見える」 > オオニシ記者の認識は、今でも東京にいる外国人記者に共通しているのではないか。 >しかし不幸なことに、日本の政財界のエリート、記者クラブメディアの幹部と記者は、「日本は民主主義国で、高水準の『報道の自由』がある」と錯覚している。
我が国の ‘報道の自由’ は錯覚ですね。
>「国境なき記者団」が「報道の自由度」ランキングで日本を66位にしていることも、あれこれ理由をつけて素直には認めようとしない。
‘心ここにあらざれば、視れども見えず’ ですね。
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