>ハーバー・ビジネス・オンライン 政治・経済 ニューヨーク・タイムズの香港拠点が、東京ではなくソウルへ移転した「本当の理由」 >2020.08.21 >印刷 >浅野健一 > バックナンバー >記者クラブという「既得権益」 >マーティン・ファクラー氏 > 筆者は2012年9月13日、当時、NYT支局長だったマーティン・ファクラー氏に記者クラブについて聞いた。>『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉新書)の著者だ。
日本人は現実直視が苦手ですからね。
>ファクラー氏は、2011年3月の東電福島第一原発事故の翌日に南相馬市へ入ったが、市役所記者クラブにいるはずの記者たちは全員逃げてしまっていたという。
日本人の記者に責任は無いのですかね。
> ファクラー氏はこう語った。>「NYTの記者になる前はウオールストリートジャーナル(WSJ)にいて、日銀担当だった。 >日銀総裁の記者会見に参加するには記者クラブの幹事の許可が必要だった。>質問をしてはだめだった。
日本人は対話が苦手ですね。日本人の指導者の話は禅問答になる。だから、幹事の許可が必要になるのでしょう。
>WSJという世界的な新聞が日本の中央銀行の総裁の記者会見に行っても、質問をしてはだめという。 >中国にもない状態だ。
中国政府は独断専行しますからね。どんな質問でも問題はないでしょうね。
> 記者クラブ制度でいちばん損をするのは日本の雑誌、フリー、ニューメディアなどの記者と日本の読者だ。>当局の発表をそのまま紙面に載せる記者クラブメディアにジャーナリズムはない。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。世界は過去から現在・未来へと移動する。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) の内容もこの中にある。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。 日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。なければ現実を否定できない。だから、現実肯定主義者となる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。子供のようなものである。日本には大人になる為の教育がない。 大人になる為の教育は、自己の哲学を作成することにある。それは、英米流の高等教育で行われている。高等教育機関に在学して自己の哲学を作成すれば、学士・修士・博士になることができきる。博士になれば、一人前の研究者として認められる。彼らの社会は学歴社会である。 考えの内容は人様々である。だから個性が見られる。しかし、わが国のマスコミは現実の内容をただ垂れ流す。だから、個性が見られない。人々は個人主義が理解できないでいる。そして、個人主義を利己主義と間違える者もいる。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。それで、相手からも信頼されない。広く国際的な協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。 政治家に政治哲学がない。これは政治家にとっての致命傷である。教養がないので対話ができない。’記者クラブ’ を設けて外国人の記者に質問を禁じている。このような隠ぺい工作により、'つかみどころのない人間' は、その正体を現すことを免れている。だから、わが国の民は政治音痴から脱することが難しい。 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)
>記者クラブは情報の寡占というビジネスモデルを既得権益として守ろうとしている」
‘情報の寡占’ という既得権益をCan we change! (私たちは変われる・変えられる) と応ずるのが正道ですね。
> 国連人権委員会の「報道の自由」特別報告者のデービッド・ケイ教授が2016年4月に東京で「記者クラブの廃止」を提案した時も、記者クラブまったく報道しなかった。
‘心ここにあらざれば 視れども見えず’ ですね。
>『朝日新聞』に至っては「『記者クラブの改革』を訴えた」とケイ氏の発言を改竄した。>「改革」と「廃止」ではまったく違う。
そうですね。 見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも ‘嘘つき にはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。(2/2へつづく)
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