2020年12月30日(水) 

 

>363028          日本語は「戦争ができない」言語である >匿名希望       20/12/28 AM01

>◆日本語では戦争ができない

>そういえば、メルマガを始めたばかりの頃で、ほぼ 2年前ですが、《この宇宙は「言葉によって作られる」その仕組み。そして、日本語では戦争ができないということ 2018/11/16》というタイトルのメルマガを発行したことがありました。 >そこで、作家の山本七平さんが、戦争に赴いていた時のことなどを記した著作『ある異常体験者の偏見』(1974年)リンクから、「日本語は戦争ができない言語」だと述べていたことを書きました。 

 

日本人は日本語を使って大きな戦争をしたのではありませんか。その時は日本語に何か良い工夫を施したのでしょうね。  

 

>◆主語がない日本語

>この意味は、日本語は一般的に、主語や時系列や目的語さえも曖昧なことが普通である言葉ですが、そういう言葉では「戦争」はできないのです。 

 

自衛隊の言葉はどうなっているのでしょうかね。  

 

>「誰が 何日何時何分に どこの場所に 何をするために 何々を行う」ということを常に言うようなタイプの言語でなければ、その言葉のままでは戦争はできないのです。>たとえば、英語で「主語がない」ということはありませんが、日本語の場合、主語がないのが普通です。 

 

日本語はなれ合うための言葉ですからね。日本人同士は ‘阿吽の呼吸’、 ‘つうかあの仲’ です。気心の知れた友達同士の交際範囲は狭いですね。政治もできない。だから政治音痴になっている。     

 

>買い物に行くときに、家族に「私は買い物に行こうとしているところだ」というのは変です。 

 

日本人には意志 (will) というものがありませんね。   

 

>「買い物行ってくる」という主語と助詞と進行形のない言い回しが日本語の基本です。 

 

日本語は、実況放送・現状報告の為の言葉ですね。

フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には ”to be” にあたる適当な動詞がない。“being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)

 

>◆「軍隊語」の必要性

>ところが、ここまで抽象的な言語だと、近代的な戦争を行うことができないのです。  

 

非アリストテレス的文法では、抽象語の内容も定義できないですね。ですから、発言が哲学にはならず、出鱈目になる。   

司馬遼太郎は<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」 

 

>そのために、日本軍は「軍隊語」という、戦争に特化した言葉を作ったわけです。>つまり、「日本語という言語そのものが平和を表現している、世界で唯一に近い特殊な言語」なのです。 

 

日本語は曖昧な言葉ですから大勢の人が組織的な行動をすることができないのですね。戦争もできなければ平和運動も難しいでしょうね。      

 日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)     

 

>その山本七平さんの著作の部分を抜粋して、今回は締めさせていただきたいと思います。 >私自身は、大げさに聞こえるかもしれないですが、「日本語」という存在そのものが、この世界の最後の良心を示す存在だと思っています。  

 

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。無責任の世の中は良心的ではありませんね。 (2/2へ続く)  

 

 

 

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閲覧数330 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2020/12/30 12:01
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