2021年02月07日(日) 

 

>317445          近代化で日本人の言語能力は低下する一方

>山澤貴志 ( 51 ITコンサル )    16/07/17 PM10 【印刷用へ】

>現代人の言語能力の低下は多くの人々が認めるところだと思うが、他方で、「近代化によって日本人は無知蒙昧から脱却したのだ、日本人が世界競争に負け始めたのは、グローバル化、近代化が遅れており、民主主義の確立も、個の確立も遅れているからだ」といったような言論が今も支配している。 

 

そうですね。 今でも日本人は思考停止していますね。 日本人には意思がない。だから、他人の後追いばかりで遅れは避けられませんね。 思考停止している人間は個人の確立も無理ですね。 民主主義には個人としての政治参加が必要ですね。 そうでなければ衆愚政治になりますね。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。      

 

>この誤った認識を転換しないことには言語能力の再生はないだろう。  

 

何が誤りなのでしょうか。   

 

>歴史を遡って言語能力及び、言語能力の根幹をなす内なる欠乏(いたいこと、伝えたいこと)の変遷を振り返ってみたい。  

 

よろしくお願いいたします。 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」  

 

>●江戸時代

>戦後の歴史教科書は、近代化・西洋化を進めるGHQの意向を受けて、長らく「日本人は鎖国によって、近代化に遅れ、人々は貧困にあえいでいた」というイメージを人々に植え付けてきた。 

 

そうですね。これは薩長政府が江戸時代を批判するような内容ですね。  

 

>しかし、近年の江戸研究の成果によって、以下の事実が明らかになってきた。 >欧米は戦争と近代科学技術によって市場拡大を推し進めたが、江戸時代の日本は、幕藩体制と鎖国によって、戦争を封印し、自立した自治共同体と参勤交替という国内ネットワークづくりによって、西洋以上の先進国となっていた。   

 

さて、それはどうですかね。   

 

>例えば、当時の江戸は、パリを抜いて人口世界一の都市であり、上下水道といったインフラでもパリを圧倒していた。>そうした経済発展と技術を支えていたのは、江戸の人々の学力水準の高さ。 

 

そうですね。昔から日本人は実学 (技術) に優れていましたね。しかし、哲学 (考え) の方は、今も昔もダメですね。     

 

>江戸の識字率は70-80%と言われ、イギリスの20-25%、フランスの1.4%をはるかに凌いでいる。 

 

そうですね。読み・書き・算盤の初等教育に関するものですね。    

 

>言語能力の進化は大衆的な次元に止まらず、知識階級も進化を遂げた。  

 

‘All men are created equal’. (人はみな平等に造られている) と言えば人から尊敬される。    A

‘人間万事不平等’ と言えばただの人になる。                                                 B

Aは非現実 (考え) の内容である。Bは現実の内容である。

日本人には現実があって、非現実がない。だから、尊敬も無い。

このようなわけで我が国は、聖人君子の国にはなれないでしょう。   

 

>日本人の潜在思念に注目した本居宣長の「もののあわれ」や、自然の摂理に沿った生き方を解いた安藤昌益の「自然真営道」など、儒教・仏教といった中国からの輸入思想を消化・浄化した上で、日本独自の思想が花開いた時代でもあった。 

 

フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には ”to be” にあたる適当な動詞がない。“being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)  

 

 

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閲覧数463 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/02/07 06:25
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