>こうした江戸時代の人々の言語能力の発展を支えた、内なる欠乏はなんであろうか。 >この時代の日本人をみた欧米人が一様に驚くのが、開放的で活力に満ち溢れる人々の姿である。
日本人には奥がない。口あけて はらわた見せる ざくろかな 日本人は・奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、奥 (考え) がない。だから、浅薄である。日本人は、無哲学・能天気である。 日本人には、儀式 (作法) ばかりがあって、教義 (考え) というものがない。だから、作法ばかりにこだわって、これを励行する。子供の時には宮参り。結婚式はキリスト教。葬式は仏式でやる。全ての行為は、気分・雰囲気で決められている。思考を停止している世の中では、作法を墨守するしか自己を顕示する方法がない。
>子どもにムチを振るうのが当たり前の欧米と違い、日本では子どもたちはなにかを強制されるのではなく、寺子屋であれ、若衆宿であれ、主体的に学びあっていた。
牧畜業の調教はムチを使って行われていますね。これは農耕民との違いでしょうね。
>共同体の自治の精神「自分たちの生きる場は自分たちの手でつくっていく」が子どもたちにも貫かれており、大人たちの背中を見ながら、誰もが自ずと真似=学びに向かっていったのだろう。
日本人には今も昔も’自分たち’ があって主権在民の ‘政治’ がない。 ‘日本のような民主主義国家においては、人々こそ、自分たちの政治家に直接の責任を負うのです。ですから、日本人の自然災害下でのレジリエンス [立ち直る力] はかけがえのない立派なものですが、同時に消極性と、日本の政治に責任を負うことへの怠慢にもつながっていると感じます’。 (R.L.パリー)
>(なお活力の根幹に性充足があるとすれば、江戸の性のおおらかさも、より根本的なエネルギー源であったといえるかもしれない。)
牧畜業においては、性は最も重要な産業の基礎知識ですね。ですから彼らには性をもてあそぶようなことはできません。
>●明治 >そうした、江戸の自治精神は、明治維新の志士たちにも受け継がれた。
日本人の自治の精神には政治がない。だから、政治音痴のままで居る。消極性と無責任 (怠慢) であるとの指摘がR.L.パリ―氏からなされています。 日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。 意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく) 日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。 意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。 ‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り) ‘兎角、この世は無責任’ という事か。
>「和魂洋才」というコトバが象徴しているように、近代思想を消化しながらも、その根底には江戸時代に育まれた精神性が息づいていた。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。 (3/3へ続く)
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