>でも、こういう言い方は、たしかに近頃ほんとうによく目にします。> 僕が政治的なことについて発言した時にも「それならあなた自身が国会議員になればいいじゃないか」と絡まれたことがあります。
理屈には大人と子供の区別もありませんね。身分の状態を話題に持ち出すのは理屈に興味を持てない証拠ですね。
>僕の知り合いが、ある有名ユ―チューバーについて批判的なコメントをしたら、「そういうことは再生回数が同じになってから言え」と言われた。>ある若手経営者について批判したら「そういうことは同じくらい稼いでから言え」と言われた。
日本人の序列感覚はいつまでたっても抜けませんね。日本語使用による副作用というべきものでしょうね。
> 全部パターンが同じなんです。
そうですね。日本人の序列メンタリティ (考え方) は日本語の使用により少しも揺るぎませんね。
>批判したければ、批判される対象と同じレベルにまで行け、と。 >だから、「権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ」ということになる。 >それはいくらなんでも没論理的ではないですか。
そうですね。日本人には理論というものが難しすぎますからね。ですから、わが国では学問 (哲学) が栄えません。
> 「現状に不満」というようなことは現状を変えることができるくらいの力がある人間にしか言う資格がない。 >無力な人間には、そもそも「現状に不満である」と言う権利がない。 >こんな言明にうっかり頷いてしまったら、もう「現状を変える」ことは永遠に不可能になります。
そうですね。 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上> (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)
“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)
>だって、今あるシステムの内部で偉くなろうとしたら、まずシステムを受け入れ、そのルールに従い、他の人たちとの出世競争に参加して、そこで勝ち残らなければならないからです。 >勝ち残ることができなくて、途中で脱落すればもちろん現状は変えられない。 >勝ち残ってしまったら、「自分を出世させてくれたシステム」を変える必然性がなくなる。>グルーチョ・マルクスのように「自分を入会させるようなクラブには入会したくない」ということが言えるのはごく例外的な人だけです。>ふつうの人は「自分が偉くなれる仕組みはよい仕組みである」と考える。
そうですね。
>「現状に不満があったら、まず現状を変えられるくらい偉くなれ」という言明は人を現状に釘付けにするためのものです。
そうですね。 我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。 新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。 地位とは国際社会の序列順位の事で、問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表の風習であります。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得が不十分なためか。
>人を今いる場所に釘付けにして、身動きさせないための「必殺のウェポン」として論争で愛用されている。>実に多く人たちが喜々としてその定型句を口にしている。
日本人必殺のウェポンは外国人には通用しないセリフで無能な人間の一つ覚えですね。話にならない人間の証拠ですね。
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