2021年06月10日(木) 

 

>367749        西洋の自然(しぜん)と東洋の自然(じねん)>向陽 ( 29 会社員 )           21/06/10 PM08

>同じ「自然」にも2つの読み方がある。>「しぜん」と「じねん」。>ほとんどの人が、「しぜん」としか読めなかったのではないだろうか。>実はこの2つの読みには、西洋と東洋の思考の大きな違いが表れている。>以下、リンク より引用    

>>もともと自然(しぜん)と自然(じねん)って何が違うんだということを調べると、1800年頃に、当時オランダ語かな、natuurっていう言葉を日本語に訳したときに「自然」という言葉を付けたのが、もともとの自然(しぜん)と自然(じねん)という言葉の意味が違ってきた頃なんじゃないかなと思っています。>自然(しぜん)つまりnatureって何なんだっていうと、人間が含まれているというよりも、人間の世界の外にある自然界、山とか川とか海とか、そういう外にあるものとして捉えているのがnatureの意味に含まれる。

 

そうですね。人間だけは特別扱いですね。   

 

>一方もともと日本語による自然(しぜん)・自然(じねん)という言葉は、すごく重なってるんだと思うんですけど、自分とか人間も全部含まれているある状態の中で捉えている言葉だった。  

 

それは日本風ですね。  

 

>そこにnatureという入ってきた言葉と、自然(しぜん)・自然(じねん)という言葉の違いになったらしいと。

>もっと辿っていくと、自然(しぜん)って日本語の中では「自然な」とか、形容詞や副詞で使うことも多いんですけど、natureって基本的に名詞。   

 

そうですね。Nature は名詞、形容詞はnatural ですね。   

 

>そこにある何かっていう「もの」と、「自然な流れ」とか「自然な状態」とかっていう副詞とか形容詞みたいな、違いがある。

>自然(じねん)というか日本のもともとあった自然(しぜん)という感覚と、nature、対象となっている「何か」みたいなことが、もともとすごく違ったんだなっていうのが、どうやら言葉が大分重なってきたらしい。

>一方でどっちの言葉にも共通しているのは、「人為的なもの」「人が何かをするもの」ではない、ということ。  

 

自然には意思が働きませんね。もし意思が働いているとしたら、それは神の意思でしょうね。  

 

>それがどっちも共通して根底にある。>これを、「なんでこの違いが出て来るのか?」みたいなことをどんどん掘り下げていくと、その先に見えてくるのは、西洋と東洋、この区分けも多分いろいろあるって話なんですけど、どうやら「西洋的な捉え方」と「東洋的な捉え方」、そこがそもそもだいぶ違うみたいなことになります。

 

そうですね。意思の無い日本人と、意思のある西洋人の違いでしょうね。        

[意思について] 日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)        

 

>西洋の捉え方ってもともとでいくと、基本的には世界は固定的なものだし、要素還元して分けていくと、神の作ったすごいシンプルな法則が最後そこにあって、それを理解すると世界はわかるんだ、という捉え方になっていきます。 

 

神と人間は通じているのですね。   

 

>東洋的な捉え方って、もっと世界が流動的で全て複雑で、関係性で絡み合ってる世界の中にあって、色んなものが複雑に絡み合って関わり合っているので、どこかだけを取り出したら分かるみたいな世界じゃなくて、全部続いている連続的なもの。>さっきちょっと言った「自然な」とか、動詞とか形容詞とかで取られるみたいに、世界が動詞でどう体系化しようかみたいな捉え方が、どうやら東洋的な方に近いらしい。  

 

現実の世界は千変万化してとどまる所を知りませんね。    

 

>そのnatureという言葉と、自然(じねん)っていう言葉で言ってるような、世界を分けてもらいたい的な世界と、それから全部動いていてその中をともに進んでいる、その中に自分もいるものとして世界を捉えてるみたいなことが、すごく自然(じねん)という言葉だったのかなということが、ベースとして大きな違いではないかなというふうに、だんだん見えてきました。

>この辺を、言葉で語れば語るほど難しくなってくるんですけど、「分けて捉えてる」的なものと、「動きながらそこに一緒にいる」ことだよね、という感覚の違いが、すごく自然経営と言っている空気感とか合わせたいことの >>自然(じねん)とは何か、前の回でも言った「あるがままに委ねる」にすごい近い感じがしていて、そこに私っていうものが強くいるというよりも、全部が流れの中で本当に動いているっていう感覚を持っていることだと思っています。

 

 

 

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閲覧数246 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/06/10 22:36
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