2021年09月14日(火) 

 

 

>男性革命は、ギリシャ哲学やユダヤ教や仏教や儒教など、男性原理に基づく宗教や哲学が誕生した紀元前5世紀頃の「枢軸時代」がピークなのだが、その頃の日本はまだ縄文時代で、当時の日本人はプリミティブな地母神を崇拝していた。

>6世紀になると、日本は、男性宗教の一つである仏教を輸入するが、当時の日本の為政者たちは、仏教を、自分が解脱するための宗教としてではなく、現世に対する執着を捨てない怨霊を成仏させる技術として導入した。   

 

アメリカ人は日本人が仏教徒であることを知って、我々がインド哲学を理解しているものと思っている。ところが、事実はそうでない。我々日本人にとってあの世の事は絵空事に近い。

ヒンズー語は印欧語であり文法に時制を持っている。だから、過去・現在・未来に相当する前世・現世・来世の世界観をもっている。だが、特亜三国 (日本・中国・韓国) の言語には文法に時制がない。だから、特亜三国人には世界観がない。そして、特亜三国人は輪廻転生の考えに囚われて苦しむこともない。だから、自己の涅槃を求める小乗仏教は必要でない。     

 

>無念の死を遂げた敗者が、怨霊となってたたりをなすという怨霊信仰は、日本だけでなく、世界中にある。>しかし、怨霊を神として崇める伝統があるのは、少なくとも先進国では、日本だけである。 

 

恐ろしいものは全て日本人の神様・雷様になりますね。   

 

>世界の仏教圏においても、「誰でも死ねば仏になることができる」と信じているのは、日本の仏教信者だけである。

 

日本人は善悪の区別がはっきりしないですからね。   

 

>この怨霊崇拝とその仏教的変形も、「甘え」で説明できる。>土居は、日本人が「甘えの葛藤の彼岸にある者を神と呼んでいる」と言うが、敗者となっても、怨霊としてたたりをなせば、神あるいは仏として崇めてもらえると期待することも、甘えの一つである。

 

全てを巻き込むのが日本人のメンタリティですね。敵対する意図がない。   

 

>旧約聖書では、イスラエルの民が、出エジプトの後、カナンへ向かう途中、神が邪魔になる住民を大量に殺戮しているが、殺された人々が怨霊となって報復したり、イスラエルの民が鎮魂のために怨霊を神として崇拝したりするということはない。>イスラエルの民にとって、ヤハウェは唯一絶対の神であり、他の神を崇拝することは許されない。

 

イスラエルの民には都合の良いとこるだけを取る習慣はないのですかね。   

 

>ユダヤ-キリスト教が父性の宗教だとするならば、日本の伝統宗教は母性の宗教である。>母親が相手なら、幼児は、欲求不満のとき、泣きじゃくって駄々をこねれば、あやされて慰めてもらえる。 >だから、日本では、怨霊が「自分を神として崇めてくれ」と駄々をこねるのである。  

 

それは大人の体をした精神的な子供ですね。     

 

>だが、父親に対しては、こうした甘えは許されない。>父なる神は、絶対的な超越神であり、人間同士の恩讐の彼方にある。 

 

あるべき姿の内容が脳裏に構築されていますね。   

 

>世界で一番男性的な宗教は、イスラム教にちがいない。 >最近電車の中で、私は、イスラム文化圏から来た夫婦を目にした。

>妻は手ぶらで座席に座っているのに、夫は片手で重い荷物を持ちながら、もう片方の手で幼児を抱き、揺れる車内でバランスを取りながら立っているのを見て、「イスラムの男はたくましいな」と思ったものである。 >他方で、イスラムの男性が、日本の年配の女性に席を譲ったところ、その女性が、深々と頭を下げてお礼を言った後、彼女のいい年した息子を座らせたのを見て仰天したといった類の話もよく聞く。 

 

人間はみな同じではないですね。    

 

>外国から来た女たちは、日本の男を評して、「頼りない」「子供っぽい」「男らしくない」と言う。 

 

日本人の脳裏には ‘あるべき姿’ の内容が構築されていないので、脳裏はどろどろしています。これは ‘頼りない’・’子供っぽい’・’男らしくない’ の根源をなしています。       

 

>「男らしくない」あるいは同じことだが「父親らしくない」という評に対しては、「そんなことはない。戦前の日本の怖い父親を見よ。妻に対して威張っている亭主関白には、父親の威厳があるではないか」と反論したくなる人もいるかもしれない。 >確かに「メシ!」「フロ!」と妻に命令する亭主関白は、一見すると偉そうである。 >しかし、妻から見れば、亭主関白などは、自分一人では身の周りの世話が何もできない「大きな赤ちゃん」に過ぎない。

 

そうですね。 司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」      

 

>欧米では、夫が妻のために食事を運び、部屋に入るときには、自ら扉を開けて、妻を先に入れる。 >こうした「婦人への奉仕」という欧米に伝統的な騎士道精神を見て、「欧米では、女性は尊重されている」と思うかもしれない。 >実はこれは、「女は、オレたち男が守ってやらなければ生きていけない、か弱い動物だ」という男尊女卑の態度の表れである。 >日本の男にとって、妻が母親の代替物であるのに対して、欧米の男にとって、妻はペットなのである。

 

そうですね。英語では、husband は ’夫’ であり、husbandry は ‘家畜飼育法’ ですね。   

 

>3. サムライは男らしいか  >読者の中には、日本の男には、欧米の男にはない男らしさがある。 >例えば、太平洋戦争の時、特攻隊に自ら志願するなど、死を恐れずに戦ったのは、日本兵の方であって、英米の兵は、“女々しい”ことに安易に降伏した。と反論する向きもいるだろう。  

 

太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も投降して、75000人以上の将兵の命を救った。

太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。

日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はないのか。人命の尊重はどのように考えられていたのであろうか。

 

>戦前の軍人や江戸時代の武士にとって、「死は鴻毛よりも軽し」だった。>この「勇ましさ」は、日本の文化が母性的ではなくて、父性的であることを示しているのだろうか。

 

日本人の勇ましさは見栄と外聞によるものでしょうね。日本には恥の文化があります。 

日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから、恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂に仕立てる。日本人の勇ましさは恣意決定によるものでしょう。          

 

>戦陣訓に「生きて虜囚の辱を受けず」とあるように、戦時中の日本兵は、捕虜になるよりも自決の道を選んだ。  

 

日本兵の自決は見栄と外聞によるものですね。義理 (序列関係から生じる義務) と人情 (私意・我儘・身勝手) の板挟みになった末に日本人が選ぶ道でしょうね。       

 

>中には、戦闘中に意識を失って、不本意にも捕虜となった日本兵もいたが、彼らは、その恥ずべき事実が母国に知られないことを切望した。  

 

そうですね。’恥ずかしながら、生きて帰って参りました’ と恥をさらすことになりますね。長谷川和夫という偽名を使う日本兵も大勢いたそうですね。    

 

>これに対して、捕虜となったアメリカの兵隊は、自分が捕虜となったことを祖国の家族に知らせて欲しいと願い出て、日本人を驚かせた。 

 

日米の生活習慣の違いですね。自分の安否を気遣う人がアメリカには多くいたのですね。    

 

>アメリカ兵も、命をかけて祖国を守ろうとした点では、日本兵と変わらなかったが、彼らには、家族を守る父親としての責任もあったので、無駄な死を避けて捕虜となることは、少しも恥ずかしいことではなかった。 >何よりも、彼らは、死が美しいとは思っていなかった。

 

アメリカ兵には犬死の美学はなかったのですね。彼らには戦場にて辞世の句を詠むことも無かった。    

 

>日本には、長い間咲き続ける梅の花よりも、すぐに散ってしまう桜の花を愛する独特の美学がある。>花となって散っていった特攻隊員や潔く腹を切った武士たちは、そうした死の美学に陶酔していた。>「花は桜木、人は武士」である。  

 

日本人は気分・雰囲気・感情に身を任せることが幸せと感じているようですね。ナウな感じのする人間ですね。   

 

>特攻は、今では日本の専売特許ではなくなったが、自爆テロを行うイスラム原理主義者たちは、父なる神アッラーのために死ぬのであって、日本人のように、死そのものが美しいとは考えない。

 

回教徒は酒を飲みませんから、気分・雰囲気に酔いしれて自爆テロをしているわけでもないでしょう。    

 

>精神分析学では、死への欲動をタナトゥスと名付けているが、日本には、なぜタナトゥスの美学があるのか。 >人は、死ねば土に帰る。 >死ぬということは、母なる大地の懐に戻るということを意味している。 

 

我々は自然に帰るのですね。   

 

>日本の特攻隊員が死ぬ直前に叫んだ言葉は、「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん」だった。 >勇ましい武士も、死ぬ直前に口にした言葉が「おっか(お母さまのこと)」だったりする。 >自ら死を選んだサムライは、その深層心理において、胎内回帰願望によって動機付けられていた。>このように、一見すると勇ましそうな日本人の死の美学も、実はきわめて幼児的な欲動に基づいているのである。  

 

我々には、ゲゼルシャフト、 (天皇制) より、ゲマインシャフト (家族愛) がより基本的ですね。   

 

>4. 日本人の縮み志向 >韓国の比較文化論者、李御寧は、「縮み」志向の日本人という本の中で、日本文化には縮み志向があることを指摘した。 >たしかに、縄文時代の屈葬から現代のカプセルホテルに至るまで、日本人が小さな箱の中に縮んで入りたがることを示す例は枚挙に暇がない。 >これは、日本では土地が不足しているからだと言う人もいるが、日本以上に人口密度が高いところに、必ず縮み志向の文化があるわけではない。

 

日本人の縮み志向は言語に支配されたメンタリティ (考え方) にあるのでしょうね。   

 

>日本人が縮み志向であるということは、日本人が大人になることを拒絶しているということである。>そして、日本人が「小さな箱」の中に入りたがるのは、胎内回帰願望の現れである。

 

日本人には世界観がない。無哲学・能天気では心もとないですからね。小さな所に入りたがりますね。      

 

>日本人は、縮むことだけでなく、縮めることも好きである。>1980年代に、日本人は、欧米人が発明した製品の精巧な小型版を作り、世界の市場を席巻した。  

 

日本人は目先・手先に神経を集中することが得意ですからね。加工技術が発達すれば小型化できる。   

 

>李御寧によると、初めて世界的にヒットした日本発の輸出品は、折りたたみ式の扇子だったそうだ。>だから、先進国の製品を見て、それを縮めて模倣し、輸出するという伝統は、平安時代からあったことになる。 

 

そうかもしれませんね。   

 

>このように、日本人は、先進国が作った物のミニチュアを作ることに熱心なのだが、これもまた、きわめて幼児的な現象である。

 

幼児は高度の技術力を発揮できませんね。    

 

>幼児は、大人がしていることを見ては、「…ごっこ」という遊び心で、そのミニチュアを作りたがるからだ。  

 

猿真似は、サルでもやりますね。    

 

(略)

 

 

 

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閲覧数30 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/09/14 22:10
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