2021年09月19日(日) 

 

「すべて他人のせい」にする人が、結局は誰よりも苦しむ“悲しい結末” 9/14(火) 12:01配信

(略)

>重荷を逃げることばかり考えて、生きがいを見失っている人は多い。

>加藤諦三氏は著書『人生の重荷をプラスにする人、マイナスにする人』にて、責任転換をしてきた人にはゆくゆく付けが回ってくると指摘する。

>現代において、重荷を逃げることばかり考えて、結局生きがいを見失っている人が多く見られる。

>これまで数々の人生相談を受けてきた加藤諦三氏はこのように語る。

>同氏は著書『人生の重荷をプラスにする人、マイナスにする人』にて、人生の重荷を避け、責任転換をしてきた人にはゆくゆく付けが回ってくると指摘している。

>逆に、重荷を背負った人は最後にはそれなりの雰囲気が出来上がっているという。

>※本稿は、加藤諦三 著『人生の重荷をプラスにする人、マイナスにする人』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

>ずるく立ち回った人は、四十過ぎて顔に出る

>会社や親戚の集まりでは「体の調子が悪い」と言って、自分がしなければならない仕事を人に押しつけて、逃げて逃げて逃げまくって生きてきた。

>とにかく嫌な仕事から逃げて生きてきた。

>自分が支払わなければならないお金を「ちょっと今大変なのよ」などとうまいことを言って、人に払わせた。

>そして人に隠れてけっこう貯金をしていた。

>本当は自分が言わなければならない言いにくいことを、人に言わせて逃げた。

>そうしたことのたびに心の底で「うまくいった」と思っていた。

>心の底で「得した」とほくそ笑んでいた。

>しかし実はそのたびに心に借金を重ねてきたのである。

>「得した、うまくいった」と思った時が、実は後から考えれば大損をしていた時なのである。

>誠実な人は人のために尽くす。

>しかしある時に「これだけやっても、この人は変わらない」と見切りをつける。

>やるだけやった時に「これでお終い」とハッキリと心にけじめがつけられる。

>そうした時にずるい人は黙って自分に尽くしてくれる人を見て、「うまくいった、得した」と思う。

>しかしまさにその時は、誠実な友人が、実はあなたに見切りをつけた時なのである。

>心の葛藤を自ら乗り越えるのも、人生の重荷の一つである。

>それなのに自分の心の葛藤を人を巻き込んで解決した。

>つまり人に絡んで生きてきた。

>責任転嫁である。

>あるいは相手の問題を解決するつもりはないのに、いかにも解決してあげるような顔をして「誠実ないい人」を演じて生きてきた。

>たいしたことをしていないのに、自分のしたことをたいそうなことのように人に売り込んできた。

>とにかくそうして小さい頃から、ひたすら人生の重荷を逃げて生きてきた。

>その結果、借金地獄になった。

>それが年をとってからの苦悩である。

>不幸は突然来るものではない。

>毎日毎日の生活の積み重ねとして人は不幸になるのである。

>自信をもてないように生きてきて、自信が欲しいといっても無理である。

>道を歩いていると大きな木カブが道を塞いでいる。

>そこで「何で俺の人生はこうなんだ」と文句を言っている。

>そして人に助けられて通り過ぎる人がいる。

>自分の力で木カブを抜くなり何なりして処理をしていない。

>後から振り返ると、その人の歩いた道は木カブを掘り起こした跡だらけのでこぼこの汚らしい道である。

>しかしその木カブをていねいに時間をかけて自分の力で抜いて、そこに花を植えていく人もいる。

>次にまた大きな木カブに出会う。

>その人は前に自分の力で抜いたから、もうどんなに大きな木カブでも抜く自信がある。

>その自信があってまた木カブを抜いて花を植えた。

>その人の歩いた跡はきれいな花が咲いている。

>後から考えると木カブを処理したことが財産となっている。

>重荷を背負った人は、最後にはそれなりの雰囲気ができあがっているものである。

>よく「四十を過ぎたら自分の顔に責任をもて」という。

>たしかにずるく立ち回ってきた人は、四十を過ぎたら顔に出る。

>どんなに金の時計をしたり、大きなダイヤをつけても、重荷を逃げた人は卑しい顔なのである。

>どんなに権力をもっていても貧相なのである。

>逆にどんなに襤褸を着ていても、品格のある人というのがいる。

>30年間泥棒をしていれば、泥棒の顔になる。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく) 

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。ノー・イディアで暮らすことになる。

 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人には被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。 だから日本人は罪の話は嫌いです。

罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) も見事に失敗しました。アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 欧米人は哲学と意思により人間の行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は (口実・言い訳・言い逃れ) である。本音は、(私意・我儘・身勝手) である。だから、現実の中に行為がうずもれて低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。  

 

 (略)

>責任転嫁のつけは必ず回ってくる   

>心理学者のヘレン・ニューマンとハーヴァード大学のエレン・ランガー教授の離婚に関する研究によれば、結婚に失敗した原因をもっぱら別れた相手のせいにする人たちは、いろいろな原因を考えることができる人たちに比べ、より長く苦しむということである。

>そのことをエレン・ランガー教授は自分の著書(*)の中で述べている。

>このことは苦しんでいる人間、悩んでいる人間について考える時の一つのヒントになる。

>つまり常に責任逃れをして生きてきた人は、そのつけをきちんと払わされているのではないかということである。

>つまり責任逃れをして生きてきた人は、自分の責任は自分の責任として物事を処理してきた人よりも、日常生活で苦しんでいるということである。

>責任転嫁の得意な人がいる。

>何か面白くないことがあるとすぐに人の責任にする。

>何でも人の責任にして生きていれば、その場その場は楽である。

(略)

>何でもかんでも悪いことがあると人のせいにして、他人を責めている人を見ると、あれだけ何でも人のせいにできれば、生きるのが楽だろうと思うが、実は逆なのである。

 

そうですね。彼自身には意思がない。だから、受動ばかりで能動がない。この状態では、彼自身の思う場所にはたどり着けない。だから、彼は苦しんでいる。        

 

>彼は周囲から見るとなんて迷惑で、なんて勝手な人なんだろうという気がするが、本人は周囲の人よりも苦しんでいる。

>ある三十代も半ばを過ぎた既婚の男性が、若い独身の女性と恋をした。

>彼には子供もいた。

>そして離婚をしてその恋人と結婚した。

>その結婚に彼は心の奥底で良心の呵責を感じていた。

>心の底の底で彼は別れた子供が可哀相だった。

>ところが意識の表面では彼は離婚、結婚、恋愛、すべての責任をその若い女性に押しつけた。

>子供に可哀相な思いをさせているのは自分の責任なのに、恋人のほうを責めた。

>「おまえのために、結婚してやった、そのおかげで子供が悲しい思いをしている」と恋人を責めた。

>彼は何をしても、自分が悪いといって自分で責任をとれない。

>その若い恋人と一緒になりたかったのは自分なのに、それを認められない。

 

意思の無い人が責任をとることは難しいですね。   

 

>相手がそれを望んだとして、相手を責めた。

>子供が可哀相なのは、結婚したがった恋人の責任だと恋人を責め続けた。

>離婚の原因をつくった恋をしたのは自分なのに、それを認められない。

>彼は生涯責任転嫁をし続けた。

>そして生涯苦しみ続けた。

>彼の苦しみは年をとるにしたがって激しいものになっていった。

>彼はいつも怯えていた。

>誰と会っても虚勢を張ったり、迎合したり、いつもビクビクしていた。

>それよりも最後はどう生きていいかもわからなくなり、苦悶のなかで生きていた。

>重荷から逃げるにしろ、責任転嫁にしろ、その場が楽なことは最後には大きなつけとなって本人に返ってくる。

 

>*Ellen J. Langer, Mindfulness, Adison-Wesley Publishing Company, Inc. 1989.

>加藤諦三(早稲田大学名誉教授、ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)  

 

 

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閲覧数46 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/09/19 10:32
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