2021年09月18日(土) 

 

>370630        日本人はなぜ「集団の考え」に染まりやすいのか  >匿名希望 21/09/18 PM02

>自分の頭で考えることの重要性を今一度再認識する必要がある。 >以下リンクから引用(リンク)https://diamond.jp/articles/-/188040

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>日本人はどのムラに所属するかで倫理観が変わる  > 日本はムラ社会であり、ムラには独自の善悪の基準があります。

 

そうですね。善悪は独自のものですね。      

 

>産業や共同体ごとに独自の論理があり、それぞれに「独自の物の見方」があるのです。 

 

そうですね。アラブにはアラブの見方があるようなものでしょうね。    

 

> 政治家の善と国民の善は同じではないかもしれません。

 

そうですね。貧乏人と金持ちの場合も同じ基準ではないようなものでしょうね。

 

>特定の利権産業団体の善が、市民にとって悪であることもあります。> 山本七平氏は、日本人はどのムラに所属するかで善悪の基準がコロコロ変わる「情況倫理」に陥ると指摘しています。  

 

義理と人情のこの世界のことですからね。    

 

> 一方、その対比として、山本氏は西欧の「固定倫理」も紹介しています。> メートル法のように、規範を非人間的な基準においてこれを絶対に動かさない場合は、その規範で平等に各人を律すればよい。  

 

‘目には目を歯には歯を’ ですね。An eye for an eye, a tooth for a tooth. これも人道主義に悖る場合があるでしょうね。   

 

>この場合の不正は、人間がこの規範をまげることである(*1)。> 固定倫理をイメージするために、次のような解説もしています。> 餓死寸前に一片のパンを盗もうと、飽食の余興に一片のパンを盗もうと、「盗み」は「盗み」として同じように処罰される(*2)。> しかし日本社会の情況倫理では、「餓死寸前で一片のパンを盗む行為は、同情の余地がある」という“物の見方”がある場合、罪は軽くなります。 >逆に、「裕福な者が余興のために一片のパンを盗むのはけしからん」と見るならば、罪は重くなるのです。

 

北米では本人や周囲の者が罪を感じるかどうかが犯罪の決め手になりますね。    

 

> 日本の犯罪報道を聞くと、殺意があったか否かが罪の計量に影響を与えることがわかります。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく) 

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。  

日本人には、恣意通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。

 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人には被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。 だから日本人は嫌いです。

罪の意識のない人には、魂の救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) も見事に失敗しました。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

 

>被害者の悲惨な結果はまったく同じであるにもかかわらずです。>情況倫理が働く日本社会では、集団の物の見方で行為への評価が違ってしまうのです。 

 

アメリカにおいても皆が罪を感じない行為に対しては、無罪放免ですね。罪の判断は人間が主体的にするものではないでしょうか。    

 

>情況に流された人間は、有罪か無罪か? > 情況倫理について、山本氏の指摘を見てみましょう。https://diamond.jp/articles/-/188040   >「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」(中略)、当時の情況ではああせざるを得なかった。 >従って非難さるべきは、ああせざるを得ない情況をつくり出した者だ(*3) 

 

それが一部始終なら人間も家畜と似たようなものですね。

 

> これは、「特定の物の見方」に支配された集団に放り込まれたことで、自分も倫理の基準を変えざるを得なかったのだ、という釈明、言い訳と捉えることができます。  

 

そうですね。言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。     

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

> 山本氏は、これを一種の自己無謬性、責任が自分にはないという主張だとしています。 

 

日本人には罪がない。だから、魂の救済も必要でない。これが現実なのでしょうね。     

 

> 情況の創出には自己もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠如している状態なのである(中略)、この考え方をする者は、同じ情況に置かれても、それへの対応は個人個人でみな違う、その違いは、各個人の自らの意志に基づく決断であることを、絶対に認めようとせず(*4)  

 

日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。これはアニマルと同じである。恣意はバラバラな単語のままで存在するので文章にならず意味も無い。だから、日本人もアニマルも責任を取れる立場にはない。         

 

> なぜ情況が生まれたことに、全員が加担したと言えるのでしょうか。 

 

人間に意思のない世界では、情況は事の次第と成り行きで説明するしかありませんね。これはアニマルと同じです。     

 

> 共同体の物の見方の形成は、参加者たちがその考え方を放置して、反論や批判をしなかったことが原因の一端だからです。  

 

人々は徳目の暗記に専念していますね。思考停止の世界でも暗記は盛んですね。でも個人主義がない。       

 

>誰かの言葉にあなたが反対せず、別の視点を投じなかったことが、集団の情況(物の見方)の支配を加速させたのです。

 

そうですね。人々に意思があればその批判は辛辣なものになるでしょう。      

 

> さらに言えば、集団の情況にのみ込まれるかどうかは人によって異なり、当然、共同体の物の見方に流されない人もいます。 

 

意思の無い人には、流されないのは難しい。だから、日本人は流される。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)    

 

>集団の情況にのみ込まれるか否かは、実は100%個人の決断であり、悪いほうに倫理基準を変えた自己の責任を情況のせいにしているだけなのです。  

 

意思の無い人間の言動には受動があって能動がない。だから、情況のせいにするしかありませんね。        

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

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